Chapter2

decrescendo plan-2


 久方ぶりに春歌先輩と顔を合わせたのは、今から2ヶ月と半月前まで遡る。

 就職氷河期の真っ只中、たまたま弓道部という一風変わった部活が面接官と一致し、たまたま会話に華が咲いただけで内定を勝ち取った俺は、今年の春から晴れて新社会人として働き始めた。
 しかし、たまたま面接がうまくいっただけでは、案の定、入社後も何かと問題がつきものだ。
 そもそも俺は、そこまで愛想が良い方の人種ではない。いやむしろ、悪い方に分類されると言った方が正しいのかもしれない。
 そのせいなのかそうでないのか、上半期は会計を担当している課長補佐に、ものの見事に目をつけられ、理不尽な差別をこれでもかというほど受け続けた。
 締切が迫っている書類をぎりぎりまで確認してもらえず、ようやっと目を通してもらえたが最後、今度は上から下まで些細なことにまで文句をつけられてしまう。
 当然、期限に追われる役割は、俺という弱者に降りかかってくるわけだ。
 別に、初日にきちんと挨拶はしたし、わからないことは自力で調べて真面目に仕事をこなしているというのに、何故こうもあからさまな目の敵にされてしまったのだろうか。

 そんな、まさしく地獄のような日々から救われたのは、9月の半ばを回った残暑の渦中だった。
 そうだ、思い起こせばこの日だって、特に変化の前触れらしきものは見当たらなかった。
 相も変わらず、黄色いプラスチックのごみ袋をカラカラと鳴らして、鍵をかけて門を閉めてi-podを再生する。
 この日のプレイリストは何を選んでいただろう。思い出せないし、そもそもここで思い出す必要は全くない。
 とにもかくにも、俺はこの日、15時を過ぎたあたりでようやっと昼休憩に入ることができた。
 追われていた仕事も一段落ついたことだし、同僚の翔歌さんに背中を押されて、約1時間の休憩を頂戴する運びとなる。ふむ、珍しいことがあるもんだ。
 しかしここまで時間が余ると、かえって何をすれば良いのかわからなくなってしまった。迷った挙句、とりあえず自販機で飲み物を買うために、1階へ降りることを決意する。

 予想の範囲内ではあったが、コンクリートの塊から脱出した瞬間、冷房が染みこんだ貧弱な身体に、野外の熱気が容赦なく照りつけてきた。
 こんなうだるような暑さの中にあっても、俺は生茶と綾鷹の狭間で何度も指を往復させている。
 結局、「選ばれたのは、綾鷹でした」という言葉が、突如頭の中に崇高な響きをもって木霊したため、気がつけば俺は綾鷹のランプを押していた。
 これがいわゆる洗脳ってやつか、と軽くこめかみを押さえながらペットボトルを取りだすと、これがまた厄介なことにスムーズに出てこない。
 あまつさえ、苦労して取りだした途端気が緩んだのか、ペットボトルが手のひらからこぼれ、軽い傾斜をころころと滑り落ちてゆく始末。

「あーあ……」

 うっかり間抜け面のまま見送りそうになったが、ワンテンポ遅れて俺はその場に立ち上がった。
 しかし、冷静に考えれば急な斜面であるわけもなし、背後にフェンスも控えているようだから、回転が止まった頃合いにでも、ゆっくり取りに向かえば良いだろう。
 炎天下に焼かれた頭でそんなことを考えていたから、俺はフェンスにたどり着くその寸前、突如現れた赤色のネイルに、ぎょっと目を見開いて立ちすくんでしまった。

「――え?」
「はい、どーぞ」

 ペットボトルを差しだした華奢なブレスレットの先に、いつかの昔目にした若草色の瞳がちらついていた。
 俺は一度瞑目し、乾いた唇を舐め、そうして気づかれない程度の低さで呻く。

「あ……。えーっと……確か……」

 額から厭な汗がにじみ始めた頃、俺はようやく彼女の桃色の髪の毛に視線を留めた。
 その色が、まるで彼女自身の名前と惹かれ合っているかのようだと――考えていた初々しい記憶を手繰り寄せ、勇気と声とを同時に振り絞る。

「お久しぶりです。あの……春歌先輩?」
「あったりぃー!」

 ぱぁっ、と子どものように顔を輝かせた春歌先輩は、もし間違えたらこれもらっちゃおうかと思ってたんだ、と笑顔で綾鷹を返してくれた。
 その、どこまでも屈託のない冗談に、おかえり俺の綾鷹、と心の中でつぶやきながら、深緑色のラベルをごしごしと擦る。

「ありがとうございました。すいません俺、なんかぼーっと見てて」
「いやいや、いいってことよ。それにしてもほんっと久しぶりだね! 確か研修のとき以来でしょ? どう? そっちではそれなりにうまくやってる?」
「はぁ……まぁ、その……」

 軽い調子で向けられた好奇心に、俺は苦笑めいた返答しか残せなかった。
 電話が鳴るだけでビビっていた当初に比べれば、まだ使える程度には成長しただろうと考えることは容易い。
 だがしかし、相変わらず上司の理不尽な扱いは続いているし、今までやったことがない業務に放り出されると、うまく切り抜けられないこともしばしばある。

――誰かの目から客観的に見た場合、「うまくやってる」という言葉が、果たして今の自分に当てはまるのか、否か。

「いやー……社会人ってやっぱ、いろいろ難しいっすね。なんていうか、日々勉強させてもらってます」

 嘘でも「ぼちぼちですねェ」ぐらい言えよ自分、と己を殴りつけたくなったものの、現時点ではこう言うのが精一杯の状況だ。

「あ、そうなん? まー、まだ入社して1年すらも経ってないわけだし、あんまり周りと比べて気落ちしなくていーからね! 仕事なんてしょせん慣れたもん勝ちなんだからさ、これから覚えていきゃーなんとかなるって!」

 ぽふん。
 俺より頭ひとつ分背の低い先輩が、つま先を立てて一生懸命に与えてくれた、肩の上の重み。
 それが、今はなんだかとてつもなく温かく感じられて、俺は下手くそながらも精一杯に笑顔を浮かべた。

「……はい」
「……」

――そんな俺のことを、一体何を思ったのだろうか。

 まじまじと見上げていた春歌先輩は、一瞬だけわずかに睫毛を伏せた後、その顔色をひっそりと曇らせる。
 ……けれど、それだけだった。それ以上でも、それ以下でもなかった。

「……うん! そんなとこかな! それじゃ松田くん、またいつかね!」
「はい。……ありがとうございました」

 笑顔で走り去ってゆく春歌先輩の後ろ姿を、俺は棒立ちになったまま、ただただなんともなしに見送っていた。
 ……という具合にして、結局この日は、春歌先輩とはあの自販機の前で別れただけで終わったのだ。
 別段、一緒に昼飯を食べに行ったわけでもないし、研修時代の思い出話に華を咲かせたわけでもない。
 それにしても、思い返せば背丈も低くて顔も童顔で、くるくるとよく動くとても目立つ風貌をしているというのに、春歌先輩のことを今日までまったく見かけなかったのは、一体どうしてだったのだろう。

「……」

 まぁ、考え過ぎか。
 フロアが違えばすれ違う機会も少なくなるわけだし、仕事に集中して見落としていた可能性だって十分にあり得る。
 そんなことを漠然と考えながら、すっかりぬるくなってしまった綾鷹を片手に、くるりと踵を返したあの日のことを、俺はその後もたびたび思い出してはいた。ただ、それだけだった。

 そんな日々が続いてから、わずかに一週間後のこと。
 突如内線を通じて課長に呼びだされた俺は、想像だにしなかった衝撃の命令を告げられる。

――すなわち、「今後はこれまでの部署を離れ、春歌先輩の業務を手伝うように」、と。





 

back<<2>>next

 


inserted by FC2 system