Chapter4

decrescendo plan-4


「よしっ! それでは参るぞ松田くん! まずはじめに――透明人間ノ心得、其の一!」
「……ハァ」

 無人の廊下を見渡したまま、極めて冷静な相槌を打ってみせれば、春歌先輩は「ノリが悪いぞ、松田くん」、と口を尖らせて小さくぼやく。
 しかし、すぐさま気を取り直したように背筋を伸ばすと、彼女はもう一度(ちょっとうるさいくらい)大きな声を張り上げた。

「まずは、挨拶を欠かさず行うべし!」
「え、挨拶していいんですか? 普通、存在を忘れ去られたいんだったら、挨拶とかはしないでスルーしたほうが……」

 思いついた疑問をすぐさま口にすると、春歌先輩はどことなく嬉しそうな顔で、ちっちっちっと指を左右に振った。

「ふっふっふ、甘いな松田くん。大多数の人間がごく当たり前のように行う、挨拶という仕草を一人だけしないとなると、それが逆に目を引く要因となってしまうのだよ。気をつけるのは、誰に対してもなるべく同じトーンで平等に行うことと、軽く口元に微笑みを浮かべること。当たり障りのない、控えめな笑みっていうやつをね。……あとそれから、その中でも一番大切になってくるのが、目線」
「目線?」

 鸚鵡返しとともに目を丸くすると、春歌先輩はくるりと身体の向きを変え、そう、と自信たっぷりに頷いた。

「とにかく相手の目を見ないこと! ……いやゴメン、うーんと、見ないのともちょっと違うかな。男性だったらネクタイの結び目、女性だったら第二ボタンあたりを、すーっと掠めるように見つめながら、『おはようございます』。……うん、だいたいこんなかんじだね」
「は、はぁ……」

 今から約1年前、就活用の面接指導を受けていた俺としては、これはなかなかに難しい課題だった。
 何せ、あの頃はたとえどんな質問をぶつけられようが、考えている間ですらも目線を外すな、とさんざん教えこまれたからである。
 不安を拭いきれない俺を見かねたのか、春歌先輩がぽん、と胸ポケットのあたりを叩いてくれた。

「やだなぁ、そんな難しく考えなくて大丈夫だよー。慣れると意外と簡単だから、試してみるに限るって! ……あ、ほら! さっそくあそこに社員の人がいる! よし松田くん、さっそく練習だ! ゆけぃ!」
「ええっ!?」

 ばしばしとおもむろに背中を叩かれて、俺は年齢にそぐわぬ情けない悲鳴を上げてしまった。
 救いを求めて小さな頭を覗きこんだものの、彼女は他人事よろしくニヤニヤ笑っているだけで、いっこうに助け舟を出してくれる気配がない。

「どうせいつか、実践で身につけなくちゃならないことなんだから、今からちょこっとずつ慣れていこうぜ! ほらっ、行った行った!」

 これ以上意味不明な揉め方をしていると、今度は近づいてくる相手に怪しまれてしまう。
 観念した俺は、とうとう腹をくくって歩き始めた。
 カツカツと軽快なハイヒールを弾ませて、まっすぐこちらへ歩いてきたのは、長い茶髪と切れ長の瞳を持った、美脚で有名な女性社員。
 前の職場で世話になっていた、俺より2つ上の先輩――波音リツさんだ。
 なんてこった。よりにもよって前もって面識のある人が、最初の練習相手になってしまうだなんて。

「……行ってきます」

 みしみしと肋骨がけたたましく脈打っていたが、少しでも不審なそぶりを見せれば、すべてが台無しになってしまうことくらい、素人の俺にも十分わかっていた。
 靴音と心音を擦り合わせるように、浅く小さな呼吸を繰り返せば、自然と鼓動は落ち着きを取り戻してくる。
 波音先輩の顔は、窓枠から落ちる影に閉ざされてよく見えない。
 それでも、風の温度や布の摩擦音を頼りに、すれ違う間際にさりげなく顔を持ち上げると、俺は感情を押し潰した声で投げかけた。

「……おはようございます」

 目から上の筋肉は一切使わず、口許だけでささやかな笑みを構築する。とっさに会釈をするふりを装って、目線をわずかに瞳から外す。

「ええ、おはよう」

 すると、これがまた不思議なことに、波音先輩も俺と同じ、中途半端に作り損ねたような微笑を浮かべて、何事もなかったかのごとく立ち去っていった。
 俺はそれが訓練であったことも忘れて、しばしの間呆然と立ち尽くしていた。
 ……かつて同じ部署で仕事を指導してくれたとき、波音先輩は俺にあんな顔をして挨拶していただろうか。
 そうであったような気もするし、そうでなかったような気もして来る。次第に頭の底がゆらりと混濁して、真白い闇がのっぺらぼうな顔を出す。

「……うん! 上出来だよ松田くん!」

 しかし次の瞬間、目前に割りこんできた春歌先輩の満面の笑みに。
 溢れだした疑問は些細な夢のように過ぎ去って、俺の視界から瞬く間に消えてしまった。

「初めてにしてはなかなかいいんじゃない? ま、ちょーっとタイミング早かったかもしれないけどね。ほんとは相手が気づいたときには、すでに背中を向けてるくらいのほうが、挨拶を返すタイミングを奪えて効率いいんだけど」
「す、すいません」
「ま、それがかえって不自然になっちゃう人もいるし、だいたいあんなかんじで、おっけーおっけー! それじゃ、次いこっか!」
「……ハイ」

 どことなく満足げな春歌先輩の背中を、俺は何とも言えない気持ちで追いかけていた。
 どこからやってきたのかも知れない、馬の骨のような感情を叱咤するべく、自分の頬をぺしぺしと叩く。
 ……俺は今更なにを動揺しているのだろう。
 これは、信頼できる人が唯一指し示してくれた道であり、また自らが初めて選びとった道でもあるのだ。



 その後春歌先輩は、他にも様々な特訓方法を教えてくれた。
 例えば、外の部署の営業マンに混ざって、自らの企画をプレゼンテーションするとき。
 発表の際はなるべく長文の――それこそ、話を聞かずとも内容がわかってしまうような、凝りに凝ったレジュメを用意する。
 数々の統計に基づいた、無難なテーマを設定し、なるべく論理の破綻が生じないよう、説得力のある構成を整えておく。誤字脱字はもってのほか、文体にも細心の注意を払わねばならない。
 そして発表の順番が回って来たら、着席したままレジュメに視線を落として、内容を音声マシンのように読み上げていく。
 話し方や身振りに、個性やリズム感は一切不要。ただただ淡々と企画の詳細を説明し、質疑応答で会場がシンと静まり返れば成功だ。

 訓練はいたって順調だった。
 一口にはスキルと表現しつつ、ここまで来るとある種の催眠術や暗示に近いのかもしれない。
 どこぞの手品師や占い師の皆様も、こういった地道な努力を怠らなかったのだと思うと、その精神力のすさまじさには今更ながら驚かされる。
 そんな、基本的には穏やかで着実な日々が流れていったが、時折無性に背骨の周りがひやりとする感覚があった。
 ……それは、「訓練」として行っていることが、これまでの自分の行動といくつか重なっていることに気がついた時だ。
 いつかの昔、春歌先輩が言っていた「素質がある」とは、俺の普段の行動を見ての発言だったのだろうか。
 そうだとすれば、俺は何の工夫も捻りもないまま、他人から自然と自分の印象を削り取っていたことになる。
 そういう意味では現在の俺は、元来持っていた自分の才能を伸ばしているだけ、ということになり、それはつまるところ、通常の人々よりも楽に特殊な技を習得していることになるのだろう。
 順序立てて考えれてみれば、これ以上喜ばしいことはないはずなのに、どうしてだか胃の底から酸っぱい吐き気がこみ上げてきた。

 春歌先輩のことは素晴らしい先輩だと思う。信頼もしているし、尊敬だってしている。
 ……けれど、今自分が行っていることは、果たして正しいことなのか、それとも間違っているのか。


 喉の奥にしつこくぶら下がる、得体の知れない疑問の正体を、俺はいつまでたっても見つけられずにいた。




 

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