Chapter8

decrescendo plan-8


 雨音に混じって、壊れたクラクションの悲鳴がビィビィとさざめく。
 順調にスーツの重量を増やす雨に打たれながら、俺は一体いつエレベータに乗ったんだろう、と考えていた。
 そして一体いつビルから外に出て、一人で自宅への道をたどり始めたのだろう、とも。
 すべてが終わってなあなあになって、皆と別れて応接室を出たのだろうか。誰かに聞いて確かめたいとは思ったが、今までみたいに、俺の手を引いてくれていた童顔の女性の姿は、もうどこにも見当たらない。
 前後の記憶がごっそり抜け落ちているから、結果だけが俺の手のひらに虚しく残っている。

 それでも耳の奥底には、未だ狂気めいたマシンガンの音色が残っているから、あの時のことはきっと幻想ではないのだろう。
 よく見れば、スーツは雨ではない顔料で湿っているし、試しに手を軽く握って開いてみれば、赤い粘り気が糸を引いた。しかし、それが一体誰のものであったのかはうまく思い出せない。
 顔の雰囲気はぼんやりとわかるものの、目や鼻といった詳細なパーツは、ユラユラと陽炎のようにぼやけたままだった。

 いいかげん濡れて張りついたシャツがうっとおしくて、俺は軽く眉をしかめて顔を上げる。
 青色光がチカチカと点滅する、横断歩道に視線を這わせてみれば、行き交う人々の楽しげな喧騒が耳を叩いた。
 飲み屋の入り口やカラオケボックスの前で、客引きをする若者の姿がちらほら見えて、そうか今日は金曜日か、とかよくわからないことを漠然と考える。
 仕方がなく人波につられて足を進めると、かんかんかん、と独特のベル音がこだまして、目の前に黄色と黒の縞模様が降りてきた。
 間もなくして、がたんごとん、と一方向に吹き抜ける冷たい北風。
 濡れて張り付いた前髪も泳ぐくらいに速い、目にも止まらぬ一陣の閃光だ。

 やがて、不安定に揺れる一本のバーが、暗黒の雲に吸いこまれるようにして持ち上がる。
 人ごみはもう一度新たな動きを取り戻した。俺はそれに目を留め、正気を取り戻したように足を前へ動かそうとする。

――しかし、その線路を隔てた遥かな向こう岸に。

「――」

 彼女が、いた。
 たぶん、踏切が降りる前までは、そこにはまだいなかったはずだ。
 いつのまに現れたのだろう、と俺はぼんやりと彼女の顔を眺めていた。
 無機質な人造人間のような彼女は、何も口にしない。俺も何ひとつとして言葉にすることが出来ない。

「……」
「……」

 しばしの間、俺たちは声もなく無心に互いの顔を見つめ続けて。……そして。

「「っ!」」

 ガチャリ、とほとんど同時に己の銃を構えていた。
 やはり通行人は、俺たちのことなど全く気にするそぶりがなく、何事もなかったかのように傍らを通過していく。
 無関心なギャラリーに軽く微笑んでから、春歌先輩は綺麗な瞳をにこりと緩めた。

「よくやったね松田君。あの後のきみの働きぶりは本当に見事だったよ。御蔭で誰にも顔を見られず、“穏便に”会社を消し去ることが出来た。……って、ほめても全然嬉しくなさそうだね。怒ってるわけを聞かせてもらえないかな?」
「今日やったようなことが、貴女方組織の本来の目的だということですね」
「そう。スパイ活動ももちろんやるけど、本来は命令された会社を“穏便に”抹消するために結成された、暗殺専門の特殊部隊だよ」

 びっくりしたでしょ? と言われれば、嘘をつく理由もないので素直に頷く。

「最初は。でも、冷静になって考えればそっちの方が自然ですよね。一番効率的な人間の使い方ですから」
「きみはそこそこ会社に不満を持ってそうだったから、いい人材だと思ったんだけどなぁ」

 こうして私に銃を向けてくるくらいだから、失敗だったね。
 春歌先輩は感情の読み取れない笑顔で、こてん、と小首をかしげてみせる。

「あそこで銃を乱射できるくらいだもん、ホントもったいないよ。7割くらいの人間は、びびっておもらしして泡吹いて気絶して白目剥いたところを私たちにどっかーん、されてるね」
「……だからこそ、気に食わないんですよ」

 苛立ちの言葉を向けた途端、肩を狙って容赦なく発砲された。
 そういう人だと思ってはいたから、別段驚きはしなかったものの、戦いに関してまったくの素人である俺は、馬鹿正直に心音を跳ね上がらせた。
 イチかバチかで適当に避けてみたところ、幸いにも反対側によけられたので、お返しとばかりに接近して自らも引き金を引く。
 適当に撃ったわりには、なかなかいい線に狙いが定まっていたらしく、春歌先輩が動揺する貴重な顔が見られた。……けれど、そんな小さな感動すらも全部おしまいだ。

「俺がこんな目に遭った要因は全部貴女にあるんです、八つ当たりくらいはさせて下さい」

 寂しくなった口元で軽く銃口に接吻をかますと、春歌先輩は色めいた仕草で肩をすくめた。

「……へぇ。結構ハードボイルドな趣味してんじゃん」
「そう見えるんだったら、春歌先輩がハードボイルドな趣味をしてるだけですよ」

 すっ、と銃口を持ち上げて行為を促せば、彼女もまた笑顔で自らの銃をかざしてみせた。
 互いに一定の距離を保って、動き続ける世界の中で唯一の消失を待ち続ける。





――金魚鉢のように、空想的な夜だ。





(2012.11.19)

 

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