EpisodeXII-1

悪魔の睦言


 夕刻に特有の薄紫色の空が、テーブルクロスの上に細い斜陽を落としていた。
 その机はかつて、この部屋の住人である、金髪の少年のものであったはずだと、ユフは思う。
 そして、そのようなことを考えれば考えるほど、窓の隙間から注ぐ風の音色が、わびしさを増して響くばかりであった。

――もう、かれこれ三日ほどの時間が経つであろうか。

――資料室に向かったきり、レンがこの部屋に帰って来なくなったのは。

 その間、ユフは食事を運んでくる使用人たちに、幾度となくレンの様子を尋ねて回ったのであるが、どの人間もその件に関しては、頑なに口を閉ざすばかりであった。
 レースの編み目に頬杖をつきながら、ユフはぼんやりと思考にふける。

――いい加減、わたしもきらわれてしまったのかしら……。

 しかし、たったそれだけの理由であるとすれば、それはどんなにか良いであろう。
 最も考えたくなくて、最も高い可能性を秘めていることは、そんなちっぽけな悩み事とは、数里ほども離れたところにある。

――もしも、もしも資料室に通っていることがばれてしまって、彼の身に何かあったのだとしたら。

 それは、想像をするだけでも、寒気がするほど恐ろしいことであった。
 そもそも、ここに連れてこられた経緯から考えても、この屋敷の住人たちは、必ずしも温厚な手段を取るとは限らないのだ。
 ひょっとすれば、彼が何らかの罰を受けている可能性も、十分にあり得る。

――それならば。

 本音を言えば、ユフはかつてないほどの心細さを抱いていた。
 しかし、この状況を黙って見過ごすわけにはいかないのだ。
 彼女はソファの上に身を丸めたまま、人目につきにくい闇の刻を待った。
 そうして、屋敷の者たちが完全に寝静まったころ、たった一人で資料室に向かうことを決意したのだ。

 暗い廊下には光がなく、野外から差しこむかすかな月明かりのみが頼りであった。
 ひび割れた冷たい柱を頼りに、ユフはひたすらに廊下を歩いてゆく。
 足音が立たないよう、靴は部屋の中ですでに脱ぎ捨ててあったので、普段は感じない大理石の境目が、足の裏を通してくっきりと伝わってきた。
 火の消えた蝋燭のシャンデリアが、夜風を受けてちりちりと啼く。

 やがて、それから何十分も歩き続けたころ、視線の奥にうっすらと扉の形が見えるようになった。
 青色と緑色のステンドグラスで飾られたその扉は、二対の柱に囲まれるようにして立っている。
 自然と口の中に唾が溜まってきて、ユフはこくりと喉を鳴らした。
 追い立てられるように足を速め、夢中になってノブの先に手を伸ばす。

――すると。

「――こちらの資料室には誰もいらっしゃいませんよ」

 突然、柱の影が二つに裂けて、傍らから静かな少女の声が割りこんで来た。
 今まさに扉を引こうとしていたユフは、その一瞬、まさに心臓をわしづかみにされたような錯覚に陥る。

――あと一歩……だったのに。

 絶望に駆られたまま悄然と立ち尽くしていると、声の主であるうら若い少女は、床まで伸びた銀髪を引きずりながら、つかつかとこちらへ歩いて来た。
 鋭く尖った弓のような瞳。……その、まるで血のような赤さが、夜闇の中でも爛々とした光を放っているようで、ユフはきゅっと身をすくませてしまう。

――どうしよう。

――こんなところで見つかった場合、わたしはいったいどうなってしまうの……?

 不安に打ち震えるユフの目の前で、少女はかつんという靴音とともに立ち止まった。
 そうして、戦士のように毅然とした顔を上げると、どこか敵意のこもった声で問いかけてくる。

「あなたがレン様の婚約者である、ユフとやらでございますね」
「……え? え、は、はい」
「こちらに。決してよけいな物音を立てぬよう、わたくしの後ろについて参りなさい。よいですね?」

 彼女の瞳の中のルビーが、いっそう凄みを増したように思えた。
 これから一体、どこに連れて行かれるのだろうかと考えると、恐怖のあまり心臓が飛びだしてしまいそうになる。
 しかし、ここまで来てしまった以上、自分にはもはや逃げることも隠れることも許されてはいなかった。

「……わかりました」

 ユフはうなだれ、床の上から重たい足を無理矢理引きはがす。
 窓の外では蝙蝠が羽ばたき、きぃきぃと不気味な音波を奏でていた。





 

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