「よっこらしょ……どっこい……しょ! って……うう、きっついなー……っ」
曲がりくねった畦道の上を、ずば抜けて背の高い少女が歩いてゆく。
漆黒のツインテールの隙間からは、ひときわ目を引く水色のメッシュ。前を見据える瞳は、左目が秋空を映したような蒼色で、右側は彼女の妹と同じく、燃え揺らぐ炎のような赤色をしていた。
「ふーっ。こんなところでめげるんじゃないぞ、ルコ。愛しの我が家まであと少しだッ!」
膨大な距離を歩きとおし、ともすればくじけてしまいそうな己の足腰に、ルコは渾身の力で激励を送る。
彼女が両腕に携えているのは、ここから十数キロも離れた市場に並ぶ、色とりどりの野菜や果物たち。
その重量に唇を噛みしめながら、やっとの思いで一歩を踏み出してみると、彼女のつま先はようやく坂の頂上へと引っかかった。
ごうっと吹きつけてくる向かい風は、新緑のにおいをふんだんに含んでいる。
それは額から流れ落ちる汗を瞬く間にぬぐい去り、やがて反対側の坂の下へと逃れていった。
ようやく一息を吐くことができたルコは、乱れた前髪を整えながら、ちらりと隣の庭先を顧みる。
その双眸の先に目当てのものを発見し、彼女は思わず両頬をゆるめてしまった。
「わ、やっぱりそうだ。毎年のことだけど、必ずこの日につぼみが開くんだよなぁ、この花って」
いつもに増して特別なこの日に咲く、名前も知らない不思議な花。
幼いころに出会った語り部の話によると、この花はどこかのカミサマの受難を象徴しているのだという。
花の子房柱は十字架、三つに分裂した雌しべは彼を打ち付けた太い釘。
副冠は茨の冠で、五枚の花弁と萼は合わせて十人の使徒。巻きひげは鞭で、葉は槍を表しているのだ、などと胡散臭い話を、午睡の刻に延々と聞かされたものだ。
「そんなこと、気にする必要なんてないと思うんだけどなぁ」
“どこかのカミサマ”の顔も名前も知らないルコからすれば、それはまるで蒼い額に縁取られ、茶色の指針を持つ時計のように見える。
ゆえに、彼女はひそかにその花のことを、“トケイソウ”という愛称で呼んでいた。
このへんてこな呼び方をあえて好んで使うのは、この町の中でも年下に控える二人の妹たちだけだ。
その中でも格別におとなしくて、おまけにかわいらしい二番目の妹のことを、ルコはこの家の誰よりも大切に思っているのであるが……。
「……そうだッ! こんなことをしてる場合じゃない!」
その粉雪のようにやわらかな笑顔を思い浮かべたとたん、ルコは唐突に、自分がどうしてこのような大荷物を抱えているのかを思い出した。
彼女は自宅へ帰り次第、すぐさまキッチンへこもって、今日のパーティのメインディッシュを作らなければならない。
主賓の気を引いて遊んでいるのは、陽気で無邪気な三番目の妹――テトの仕事である。
ルコは妹たちが庭先で戯れているその間、買ってきたジャガイモを丁寧に剥いて、極上のシチューを完成させなければならないのだ。
そう、今日は彼女の二番目の妹――ユフが、この世に生まれた大切な日であるのだから。
失いかけていた体力を無理やりにでも奮い立たせ、ルコは急な斜面を一気に駆け下りることにした。
邪魔な石ころは片っ端から蹴り飛ばし、ススキの群れの悲鳴を切り裂いて、猛スピードで坂道を突き進んでゆく。
「ただい……。――」
そうしてたどり着いた家の前で、ルコは怪訝に眉を寄せて立ち止まった。
(……何かがおかしい。どうしてこんなにも、家の中が静まり返ってるんだ……?)
風に押し流された雲の隙間から、毒々しいほど明るい太陽が顔を覗かせる。
そのせいで、色素の薄い左目のみが、やたらと強い日差しを感じてずきりと痛んだ。
「テト、ユフ……? 二人ともいないのか? こんな時間にどこに行って……」
張り付いて固くなったスーツの下は、いつしか冷たい汗でぐっしょりと濡れている。
ルコはごくりと生唾を飲み込むと、恐る恐る足を踏み出した。
「え……?」
その瞬間、つま先にコツンと当たったものを見下ろして、ルコはしばしの間絶句する。
おぞましい音を立ててコロコロと転がったのは、壊れた木製人形の頭部であった。
おそらくルコが来る直前まで、二人が遊んでいたのだろう。
花柄のワンピースで可愛らしく着飾られたそれは、無惨にも首から上の部分がぽっきりと折られ、廊下の上にひっそりと横たわっていた。
「――っ!?」
それだけではない。
引っかくようにリビングの扉を捻り上げると、整然と並んでいたはずの家具たちが、片っ端からことごとく破壊されているのがわかる。
どうやら何かを引きずった跡らしい。食卓のテーブルやソファを除け、まるで轍のように続いてゆく道の上には、痛々しい血痕が転々と染み出していた。
「うそだ……。どうして、いったいだれがこんなことを……ッ!」
ひきつった声で叫びながら、ルコは荒らされた道の上を、よろよろとした足取りでたどってゆく。
リビングを越え、キッチンの用具をがしゃがしゃとなぎ倒し、やっとのことでたどり着いた一階の寝室。
そこから庭先のデッキを視界に留めたとき、ルコは思わず涙混じりの悲鳴を上げた。
「――テトッ!」
暁色の髪を持つ一番下の妹が、庭の中央にうずくまるようにして倒れていた。