「ふわーぁ……ねっむ」
赤褐色の縦ロールをぷらぷらと揺らしながら、テトは海岸沿いの通りをとぼとぼと歩いていた。
潮風は今日もひどく乾いている。カモメの甲高い鳴き声がこだまするたびに、空っぽの胃の中が「ぐぅ」と往生際の悪い声で喚きだした。
……ユフが姿を消してから、今日でまるまる三カ月のときが経つ。
あの日を境にして、ルコとテトは至極あたりまえのように、朝食の席を避けるようになってしまった。
暖炉のそばでふんわりとほほ笑んでいた、ユフのやわらかな笑顔が見られないと知ると、大好きなフランスパンもほとんど喉を通ってはくれないのだ。
その時、遠くからごーん、と鳴り響いた鐘の音が、テトの心臓をばくりと揺らした。
慌ててきつく両目を閉じると、ぎゅっと耳をふさいで逃げるようにその場から駆けだしてしまう。
――ユフは、ヴォイツァの役人に連れて行かれたのだという。
ヴォイツァ家というのは、テトたちの住む城下町を支配下に置く、もっとも財力のある商人のことだ。
その家の一番下の息子が、偶然出会ったユフのことをひどく気に入り、彼女との婚約を決めてしまったのだという。
この城下町の中で、城主の命令は絶対に侵すことのできない大切な決まりごとなのだ。
テトたちは幾度も屋敷への侵入をこころみたが、城門に小指を触れる間もなく、あっというまに警備兵たちに見つかってしまった。
今では週始めの月曜日、武器を持った警備員たちに、朝から晩まで追い回されることが常になっている。
その時、うつむいていたまつ毛の先がふっと翳り、テトは押さえていた両耳をゆるゆると解放した。
そうして、見上げた先の予想外な情景に、ぱかりと口を開いて叫んでしまう。
「うわ、でっかーい。船っ!」
それは、目を見張るほど巨大な商用帆船であった。
三本のマストに横帆が張られているから、おそらくフルリグド・シップの一種なのだろう。
一番大きなメインセイルは蒼色、二番目に大きなフォアセイルは緑色の着色が為されていて、一番後ろのミズンセイルには、海の女神を模した絵が描きこまれている。
朝一番に磨き上げられたばかりなのであろうか。ぴかぴかに輝く手すりは、十一時の日光を跳ね返すほどの白さで、テトはしばしの間、はためく帆の動きにぼんやりと目を奪われてしまった。
……その時。
「うちの船に何か用?」
さらりと流れる衣擦れの音とともに、手すりのそばから静かな青年の声が降りて来た。
テトはぎくりと身を強張らせて、こつこつと響くブーツの音色に耳をそば立てる。
その瞬間、振り返った彼女の瞳に映ったのは、メインセイルを中央に並べて、一面に広がる“蒼い”世界であった。
蒼い髪と蒼い瞳、その後ろに背負われている蒼い海と蒼い空。
弾かれた色彩の鮮やかさに驚きながらも、テトは慌てて首を振った。
「あ、いや。別に見てただけだけど」
「そっか、ごめんね。どこかの商船の娘さんが、わざわざここまでおつかいに来たのかと思ったんだ」
軽く首を傾けて詫びた青年は、そのまますたすたと歩みを進めると、ミズンセイルのロープをするすると引き始める。
その身にまとうこぎれいな格好も、日に当たることを忘れたような白い肌も、何やら船乗りという職業にそぐわない気がしてならなかった。
それが妙に気にかかってしまい、テトはついつい船の下から話を続けてしまう。
「ね、この船はにいちゃんの? よくわからないけどすっごいね。僕、こんなに帆がでかい船を見るのは初めてだ」
「気に入ってもらえたみたいで、なんだか俺も自分のことみたいに嬉しいよ」
ロープの端を結び終わった青年は、振り返り際にやんわりとほほ笑んだ。
頭に巻いたターバンが、ひらひらと蝶のように優雅になびく。土埃に汚れた船底とは裏腹に、彼は何故だかひどく儚げな笑い方をするのであった。
その表情に不思議な思いを抱きながら、テトは首を傾げる。
「ところでにいちゃん、誰?」
「俺は、カイト」
必要最低限の言葉だけを告げて、カイトはにっこりと満足げにほほ笑む。
テトはむっと唇を尖らせた。
「それだけ?」
「この船で貿易関係の仕事をしてます」
「あとは?」
「好きなものはアイス」
「もういいや」
あきれたように肩を落とすと、青年はアハハと朗らかに笑った。
別段褒めたわけでもないのに、やたらと嬉しそうな彼の様子を見て、テトは本当に変な男だとしみじみ思った。
ひとしきり笑い終えた後、今度は目の覚める蒼い瞳が問いかけてくる番だった。
「ところで、きみはこんなところで何をしてるの? 今はお昼時のはずだけれど」
「うん。実のところまだ何も食べてない。朝からずっとその辺をふらふらしてたから」
「ふぅん。ずいぶんと退屈そうな暇つぶしだね」
「たいくつだよ。ずっといっしょにいた人がいなくなってしまったから」
そこで、立ったまましゃべっているテトを気遣ったのか、カイトがとんとんと船の手すりを叩いてくる。……どうやら「隣に座れ」、という意味らしい。
長い距離を無意味に歩きとおし、足が棒のようになってしまっていたテトは、ありがたく彼の隣に並ぶことにした。
梯子を伝って甲板までのぼり、つやつやの手すりにすとんと腰を掛ける。ついでに足下をぶらぶらと揺すってみせれば、カイトがわずかに苦笑を漏らした。
風が通り過ぎるほどの沈黙を待ち、カイトが優しくなで下ろすような声で尋ねて来る。
「……そうなんだ。そのひとは、きみの何にあたるひと?」
「二番目の姉ちゃんだ。三ヶ月前、屋敷のおっちゃんたちにつれてかれた」
テトが突き放すような声でそう告げると、カイトは怪訝そうに眉をひそめた。
「……つれていかれた?」