EpisodeⅣ-1

暁の両手


 追い風をとらえたフォアセイルが、ぴりぴりと張りつめたうめき声を上げる。
 やがて船底を揺らすほど大きな飛沫とともに、ザザァン、とひときわ高鳴る潮流の音。
 甲板の上で両手を広げていたテトは、まるでそれらと張り合うかのごとく、細い喉を震わせて澄んだ声を響かせた。

「海だ―――っ! うーみーだっ!」

 水滴を散らした少女の瞳は、ビー玉のようにきらきらと輝いている。
 そんなテトの後ろ姿を認めるなり、甲板で煙草をふかしていた船員たちは、ガハハと豪快な笑い声を上げた。

「おっ、なんだいテト。そんなに海が珍しいのかい?」
「ううん、海なら昔っから浜辺で見てたけどさ。こうやって前から後ろまでぜーんぶ、海のど真ん中にいるのはホントに久しぶりだよ。だから、なんだかやたらと嬉しくなっちゃって。にししっ!」
「おお、そうかそうか! ……よぉーし、ほんじゃ集まれみんなっ! 今日はテトの歓迎の意味も込めて、甲板の上でメシにするぞ!」
「ホントに!? うわーい、やったー!」

 諸手を上げて喜んだテトは、自らも進んで男の背中について回った。人数分の椅子を数えて運び、食卓の準備に取り掛かる。
 輪切りにしたフランスパンの上に、ハムとグリュイエールチーズを乗せ、ベシャメルソースの代わりにはモルネーソースを塗った。大きめのフライパンの上にそれらを並べ、アツアツのうちに皿の上に取りわける。
 久々に食べたクロックムッシュの味に、テトは頬を上気させて喜んだ。
 彼女があんまりにも嬉しそうに食べているので、貴重な栄養源であるゆで卵は、テトが選んだ二枚目のフランスパンに乗せてくれた。
 テトはまたしても歓声を上げてがっついた。こんなに愉快に食事を食べたのは、実に三ヶ月ぶりのことである。

「ほへはイト、ほまへもふへふへ」
「……ごめん、何言ってるのかさっぱりわからない」

 三枚目のおかわりを頬張りながら告げられて、カイトは当惑したような声を返した。
 テトは片手でどんどんと胸元を叩き、口の中のフランスパンを一気に飲み下す。

「むぅ……ゴクン、ふはっ! んもーカイト! おまえさっきからぜんっぜん食べてないじゃんか。だからもっと男らしく食えって、そう言ったの!」
「……何、その俺よりも前からこの船にいたような言い方」

 カイトがあきれ顔で彼女を見やると、テトは頬を緩ませて「にゃはは」と笑った。

「だって本当にそんな気がしてきたんだもん。――ね、みんな明るくていい人たちばっかだね。カイトがここにいるのが不思議なくらい」
「ハイハイすいませんね、どうせ俺は根暗ですよ。まったくもう……」

 途端、樽の上に胡坐をかいていたカイトは、両手でカップを包みつつそっぽを向いてしまう。
 テトはすかさず肩をひねると、皿を抱えたまま体当たりをお見舞いしてやった。

「なにすねてんだカイト。このやろー」
「いたっ。……テト、もしかして酔っぱらってる?」
「そんなことないもん。にしし」
「……。ならいいんだけどね」

 ふぅ、と小さくため息を吐いたカイトは、カップの中のホットミルクへ静かに口をつけた。
 どうやら、出会って早々に「アイスが好き」と豪語しただけのことはあって、彼は本当にコーヒーのような苦味が苦手らしい。
 冷静沈着で、ルコよりもずっと大人びた顔つきをしているのに、その舌は未だに子供のままなのだろうか。拗ねたようにむくれた頬と並べて考えると、彼のことが少しだけ可愛らしく感じられた。

 それにつけても、貿易船に乗ってからというもの、カイトの表情は目に見えてすぐれない。
 未だ晴れ間を見せない横顔を気遣い、テトはウサギのような瞳をぱちくりと瞬いた。

「変なのはカイトのほうじゃんか。何、こんなに楽しい仲間たちに囲まれてんのに、カイトは何がそんなに心配なの? 貿易の仕事ってそんなにつらいこと?」
「……。それは――」

 ぴくりと頬の筋肉を強張らせ、カイトが何かを言いかけたその時。

「――島が見えたぞーっ! 食べ終わったヤツから上陸の準備を手伝え!」
「よし来たァッ!」

 唐突に上がった男たちの掛け声によって、船内はにわかに慌ただしくなった。
 バタバタと駆け抜けたいくつもの靴音に、テトはガバリと身体を起こす。

「! やっば! 僕も急いで食べないとっ」

 結局、大急ぎで食事を再開したテトを見て、カイトはとうとう言いかけた言葉を飲み込んでしまったのだった。
 ……軽く目を伏せてうつむいたのちに、代わりの一言をぽつりと口にする。

「――テト」
「んあ?」
「……もしも“仕事”が始まったら、なるべく俺の傍から離れないで」

 ザァ、と吹き抜けた一陣の風が、カイトの前髪を細かく乱す。
 その、蒼色の瞳に過った哀しげな光に、筆舌しがたい違和感を覚えながらも。

「……? わかった」

 コクリ、と何気なくうなずいたテトは、大好きなフランスパンに向かって、もう一度大口を開いたのだった。



 

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