EpisodeⅥ-1

一縷の希望


「たーのもー!」

 長らく顔を合わせていないにも関わらず、扉の外から聞こえてくる声は、相変わらずの能天気な調子であった。
 ルコは思わず苦笑したが、それでも足は自然と玄関のもとへと急ぐ。
 弾む胸を押さえて扉を開くなり、そこに覗いていた懐かしい顔に、堪えきれない笑みがクスリとこぼれた。

「おかえり、テト」
「うっす、ルコ!」

 軽く片手を挙げて応じたテトは、そのままずかずかと家の中へ押し入ってゆく。
 どうやら船員たちの話し方が移ったようだ。以前にも増して男らしくなってしまったな、とルコはほんの少しだけ寂しさを覚える。
 船の上で働いていたというだけあって、テトはここ数日でずいぶんと日に焼けていた。もともと笑ったときに目立っていた八重歯が、以前よりもいっそうその白さを際立せている。

 テトがソファの上に落ち着くのを見計らって、ルコはさっそくコーヒーの準備に取り掛かった。
 久しぶりに取りだす二つめのマグカップを並べ、煎り立てのコーヒー豆を、ドリッパーの受け皿にさらさらとこぼしてゆく。

「……それにしてもあのときはびっくりしたよ。テトがいきなり『ユフを助けるためには金が必要なんでしょ? だったら船で働く!』なんて言いだすからさ。しかもそのあと本当に一週間いなくなっちゃうし」
「だってこの後すぐに出港するって言われたからさー」

 僕も急いでたんだって、と頭をかいたテトは、はははと妙に乾いた笑い声を上げた。
 そうして「そうだ」、と思いだしたように顔を上げると、懐の鞄をごそごそとまさぐり始める。
 木の実の殻やらマッチの小箱やら、ありとあらゆるガラクタたちを、片っ端からひっくり返したテトは、目当てのものを見つけるなり瞳を輝かせた。

「ほら、これルコにおみやげっ」

 にはっと無邪気に笑ったテトは、海星のような手のひらを勢いよく広げる。
 その中に転がった小さな宝物を見つけて、ルコは思わず吹きだしてしまった。

「なんだよ、ただのビンのコルク栓じゃないか」
「そーだけどほら、ここをよく見て。ルコの大好きな青色のラインが入ってる」
「……ホントだ」

 コルクを受けとったルコは、それを指先でつまみ上げてしげしげと眺めた。
 彼女は、自分の好きな青色に関しては少々うるさい。鮮やかすぎもせず、だからといって暗すぎもせず、紺色を白と緑で少しずつ薄めたような、そういう青を好むのだった。

「すごいな。ちゃんと私の好きな青を選んでる」
「でっしょー。えっへへん」
「ありがとう、テト。……それにしても、私はこれでも心配してたんだからな。ちゃんとまじめに仕事をしてるのか? いつもみたいに寝坊して、仕事をサボってるなんてことはないだろうな?」

 離れていても自分のことを考えてくれた――そんなテトの気遣いが妙に照れくさくて、ルコはついついいつもの調子で軽口を叩いてしまう。
 ……すると。

「……――」

 テトの笑顔が、瞬時にしてぴしゃりと凍りついた。
 ……どうやら何か重大なことを思い返しているらしい。怯えたように息を殺し、わずかに震えているテトの姿を見て、ルコの心臓もまた音を立てて跳ね上がった。

「……テト? どうし、たんだ……?」
「う? ……。あ、うんっ! もっちろん! だって僕、ユフのためにがんばるって決めたし!」

 慌てて顔をのぞき込もうとすると、テトはコロリと笑顔を引き戻した。

(……何だよ、その笑い方。)

 言いようのない恐怖に寒気を覚え、ルコは慌ててソファの前にしゃがみこむ。

「……大丈夫か? 貿易船で何かあったのか?」

 気遣うような口調で話しかけてやると、ボンヤリと見開かれたテトの視線の先に、一枚の写真立てが置かれているのがわかった。
 写真の中の幼い三姉妹は、薔薇の花たちに囲まれたまま、満面の笑みを浮かべてポーズをとっている。
 おそらくいつもの調子で大暴れをしたのだろう、顔中を泥だらけにして笑っている三人は、決して離れまいとするかのように、互いの手をしっかりと握りあっていた。

 ……それからしばしの後、黙ったままひたすら写真を眺めていたテトが、ぽつりと思いだしたように口を開く。

「……ねぇ、ルコ」

 芯の細いテトの前髪が、カーテンの模様とともにそよそよとなびいた。

「――僕はユフを救うためなら、なんだってするよ」
「……」
「だから、どんなことをやったって痛くもかゆくもない。もう何も怖くなんてないや。ばかみたいだ」

 テトはそう言って、どこか愛おしげな瞳を細めて静かにほほ笑んだ。
 そんな、すっかり変わり果ててしまった妹の横顔を見つめていると、意味もわからずズキリと胸が痛む。
 半ば堪えきれなくなったように、ルコは身を乗りだしてテトの肩にすがりついた。

「何を、言ってるんだ……? 意味がわからない。どういうことなんだよ。教えてくれよ、テト」

 ほとんど涙混じりの声でルコが問うと、テトは瞳を伏せたまま、わずかに唇を動かそうとした。
 ……しかしその後、突然ふにゃりと格好を崩したテトは、緊張感を手放した声でにしし、と笑う。

「へーんだっ。ルコにはぜったい教えてやんなーい」
「……! な、なんだと!? そんなこと言うなら吐くまでくすぐってやろうか、このヤローがッ!」
「にゃう!? にゃーあはははははっ! やーめーんーかーっ!」

 テトはジタバタと手足を動かしながら、猛烈な勢いでソファの上を転げ回った。
 その顔には、すでにいつも通りの楽しげな笑みが浮かんでいて、ルコは文字通りほっとする。……ほっとすると同時に、ひどく空虚な思いが、胸の内を通過してゆくのを感じていた。

――私には言えないことなんだね、テト。

――もしもここにいるのが、私じゃなくてユフだったら、おまえは今悩んでることを、包み隠さずに話すことが出来たのかな。

――そうだと、したら。

「ごめん……テト」
「んん? ルコ、いまなんか言った?」

 ぜぇぜぇと涙目になって息を紡ぐテトを見下ろし、ルコは涼しげな笑みを浮かべて首を振った。

「なんでもないよ、バーカ」

 ……そうしてもう一度、心の中で誰にも言えない「ごめん」をつぶやいた。



 

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