Scene1

薬剤散布


 
九月三〇日(木曜日)

 先生、薬剤散布を終えたばかりの家の周りを歩くのは、大変愉快なものだと僕は思います。

 薬剤散布をする前は、これから薬剤散布をはじめますので洗濯物は取りこむように、また放し飼いのペットなどは家に入れて、決して飛びださないようにしてください、そして車庫の車は薬剤の当たらないところまで移動しておいてください、などといった放送がかかるものですから、ひとびとはあわてて布団を取りこんだり、ペットをうちに閉じこめてカギをかけたりするのですね。
 しかも自分が外にでている間に、そんな有害な液体をかぶってしまったら、自分の身体が溶けてしまうのではないかとケネンしているのでしょうか、トラックが去った後もなおケイカイ心の強い人類の姿はひとりとして見あたらず、それゆえに薬剤散布を終えたばかりの住宅街というものは、人の気配の全くない、きわめてしずかな場所へとさまがわりしているのです。

 霧ふきのような薬剤の水滴をしたたらせる木々の葉は、頂上より少し手前でふるふるとくすぶり、おまけに秋の太陽の光を浴びてきらきらと輝いています。
 それは寄ってたかる虫たちをころすためにまかれたまがまがしいものであるにもかかわらず、まるで清潔な何かに洗われたばかりのように美しいのです。
 
 僕はこの薬剤散布を終えたばかりの住宅街が、とてもとても好きです。
 まるで世界がおわってしまったあと、たったひとりでこの人工的な建築物たちに囲まれて歩いているような、そんな優越感(この漢字はまだ読めません、けれど、これから先もそんなに読める必要ないんじゃない、とお姉ちゃんは言っていました)にひたってしまって、思わず鼻歌でも歌ってやろうかという気分さえします。
 でも、もし万が一自分が今とおったばかりの勝手口があいていて、家の中に住んでいる人に聞かれてしまったらいやですから、それはよしておきます。

 というか、そもそもなんで好きなときに好きな歌を歌ったくらいで人ににらまれなくてはならないのかがわかりません、僕がしたいのと同じくらいに、実際はもっと多くの人たちが、好きなときに好きな鼻歌を歌いたいと思っているはずで(以前母さんがそんなことを言っていました)、にもかかわらず、誰一人としてそれをジッコウする人がいないのはなぜなのでしょう。
 このようなことをキュウクツな社会のショウチョウだとお姉ちゃんはなげいています。
 でも、実際はそんなに困っていないようです。お姉ちゃんは深刻な言葉を使うときほど、顔がにやけているということがよくあります。

 何にせよ、人がいない、また人の気配が感じられない世界というものは、どうしようもなく心が落ち着くものです。
 僕は学校の廊下を歩いていると、かならずといってよいほど同じ歳の子たちにまじまじと顔をのぞきこまれます。
 それだけでは、かれらがいったい僕のことをどう思っているのかはさだかではありませんが、おそらくほとんどの人たちが「あいつはしゃべりかたがきもちわるい」とか、「あいつはなかなか話が通じなくて面倒だ」とか、「身体に障害があるのはかわいそう」とか、「自分はそうじゃないのだから幸せだ」とか、そういったことを考えているのだと思われます。
 前者は正直者たちの感想で、後者は先生たちをはじめとする学校側の人間たちの教育のたまものです。

 たしかに、きもちわるいとか面倒くさいとか思われるよりは、かわいそうと思ってもらったほうがいくぶんましです。
 事実、日常生活を助けてくれるひとは、あの事件が終わってから日に日に増えているような気がするし、それにおおいに助けられることだってあります。
 けれど、みんなが食事をとってきてくれたり、配膳を助けてくれたりするたびに、僕はまるで自分が八十歳のおじいちゃんにでもなったような気分になります。

 おじいちゃんになったような気分、というのがいやだと語ることは一種のサベツ的表現であると怒られてしまいそうですが、それでもやっぱり僕はみじめであるのです。
 だって、僕はみんなといっさい歳が変わらないのだというのに、どうしてそんなふうに扱われなければならないのでしょう。
 それは僕が人よりおとっているからですか。ですが、僕だって時間をかければできるのです。ただ、人より少しだけ行動のスピードがかかるだけなのです。

 でも、やっぱりいじめられるよりは助けられたほうがましだと言う僕はムジュンしているのでしょうか。
 ムジュンしているのだということはいたいほどよくわかっているのですが、それでもこの気持ちはどうにもごまかせそうにありません。

 僕は今、つんと鼻をつく消毒液のにおいに包まれた公園のベンチに腰掛けながら(もしかしたら乾ききっていない消毒液がズボンにしみこんでいるかもしれません)、相変わらず人っ子ひとりいない公園と、その周りに植え込まれたきれいな花壇をながめています。

 さきほど僕は人間がいない世界は美しいといいました。
 しかしよくよく考えてみれば、人間がまったくいない世界というのは、このようにベンチの並べられた丸いレンガ造りの公園もなければ、きっちりと色分けされた花壇もないのです。
 きっとこの大地には草がぼうぼうと生いしげっているだけで、見渡す限りなにもない土地が広がっているのでしょう。
 それよりは、花が色分けされてきれいに咲きみだれている今の光景の方が美しいのかもしれない。

 人間は否定するのに人間が生み出した秩序の方は美しいと言う僕は、やはりどうやらムジュンしているようです。

 秩序が景色をきれいに見せるのか、秩序が美しいと僕らがサッカクしてしまうのか(秩序という言葉は知っていますがどのように読むべきなのかわかりません、今度また練習につきあってください)そのあたりのことはもう少し考えてみないとわかりそうにありませんが、今日は手が疲れたのでこのあたりでやめにしておきます。
 とりあえず、僕が今ただひとつはっきりと言えることは、何で僕は世界の終わりは美しいと思っているのか、実際もしも世界が終ってしまったら、きっと赤ん坊みたいに途方にくれて、大声で泣きわめいているのだろうに、それでもどうして美しいなどと考えてしまうのか、それがまったくわからないのだということと、それから、それでも、そうだけれども、僕はやっぱり人のいないこの景色の中に、あわよくば歳をとってしわくちゃのおじいさんになる日まで、いつまでも座っていたいと、まぶしすぎて冷たい太陽の下で、消毒液の毒素に犯されたように考えているのだ、ということです。
 先生、もしもこの答えがわかるのだとしたら、今度じっくり教えて下さい。


 それでは、今日はこれにて。さようなら。








 

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