Scene10-1

シュルレアリスム-1


「侑記ってさ、ランニングと称しながら、実は夜の公園でヤンキーみたいなやつらとつるんでんじゃないの」

 家に帰るなり、部屋の中へ侵入してきた姉の発言が、今回の事件の引き金となった。

 昨日まで友人の家に泊まりに行っていたらしい姉は、自宅に帰還した瞬間、突然弟の不正を暴こうと動き始めたらしい。
 どうやら、いらついている姉の様子に気がついていながらも、それを見事に無視してした侑記の態度が、よほどお気に召さなかったと見える。
 そもそもどうしてあんなにしょっちゅう他人の家に泊まるのかは疑問だし、おそらくその際に何かしらのトラブルがあったのだろうが、今はそんなことを考えている場合ではなかった。

 誇張でも何でもなく、侑記は彼女の発言を受けて大変いらいらしていた。
 ポットの蓋が固く閉まっていたところとか、洗面所と台所の電気がつけっぱなしだったところとか、そういうどうでもいい点ですらも、すべてが姉のせいであるかのように思えるほどいらいらしていた。
 反抗期真っ直中の弟を持って、過剰な心配症を発揮したらしい姉は、これまた同じようにいらいらとしていて、爪をかもうとして、その爪が華美なネイルで彩られていることに気がついて、かむのをやめて代わりにスカートの裾をぎゅっとつかんだ。
 その一連のいらいらした動作を見ていたら、なぜだかこちらまでますますいらいらしてきた。
 とにかく姉弟げんかというものは、概していらいらの連鎖によって勃発する戦争であるらしかった。

「そんな馬鹿なことしないよ」
「どうかね。もともと友達少ないんだから、悪い奴らにいい顔されたら、ひょいってそっちに行っちゃうんじゃない」

 友達が少ないだの、悪い奴らにいい顔をされるだの、言い方のひとつひとつが何もかも釈にさわった。
 そして、極めつけはこの一言である。

「あんたのことを心配して言ってるんだから、むしろ感謝してほしいくらいなんだけど」

 他人に対してそういう無駄な癇癪を起こすくらいなら、心配なんてよけいなものは最初からいらなかった。
 そもそもどうして他人のことについて、そんなに感情の波を動かす必要があるのか、その面倒くさい心理は果たしてどこからやってくるのか、そのことがどうしても理解できなかった。
 そして、理解できないことは眩暈がするほどいらいらした。

 言葉を発するための思考というものが面倒くさくて仕方がないので、侑記はとりあえず手をのばし、一番身近にあったものを、その名も認識できないうちに思い切り投げつけた。
 方向を見定める気力さえ起きなかった。

 地声の低い姉が、きゃあ、といつになく甲高い悲鳴を上げる。
 似合ってない、ぜんぜん似合ってないよとくつくつ笑いながら、侑記は床の上にずるずると指先を這わせた。
 先ほどの名前も知らない物体Aが、どこに当たったのかも、そもそも当たったのか当たってないのかもわからないまま、侑記はもう一つ自分の指に触れたものを投げつける。
 今度はひどく細長い、それでもよくわからないもの、物体Bだった。

 また、あの柄にもない悲鳴が聞こえてくるのかと、半分ほど期待して待っていたのだが、補聴器を掠めるものは何もない。
 ひょっとして当たらなかったのだろうか、と思い当たり、ようやく顔を上げてみたところ、そこにはものの見事に姉の姿がなかった。一発目の悲鳴の後に逃げだしたのだろうか。
 窓際へちらりと視線を流すと、先ほどまで開いていたカーテンが、左側だけに偏って遮断されている。
 しかも、風にたなびくことなく奇妙な位置で静止したままだ。侑記は音もなくそっと立ち上がった。

 カーテンの縁には、ネイルで豪華に飾られた姉の爪が引っかかっている。ネイルは三枚ほど剥がれて、カーペットの上にばらばらと散らばっていた。
 きれいな装飾を奪われて、くすんだピンク色の地爪がかたかたとふるえている。
 どうやら何の前ぶりもなく、突然ものを投げ始めた侑記の姿を見て、姉は本格的に侑記のことを暴力団の候補員であると思いこんだらしかった。
 実の弟でも暴力団なら怖いか。
 そりゃそうだな、と当たり前の事実に苦笑をしかけて、侑記は改めてカーテンの上に視線を当てる。

 先ほど最後に投げつけた鉛筆が、ネイルのすぐ側に突き刺さっていた。
 もしもとっさにカーテンを引き寄せていなかったら、十中八九姉に刺さっていたであろう鉛筆を、つまり、姉のおびえを吸いとって震え続ける哀れな細長い物体Bを、侑記はしばらくの間ぼんやりと見つめていた。
 しかし、ここまで近づいてしまった以上、そのままにしておくわけにもいくまい。
 侑記はとりあえず左手でカーテンを押さえこみ、そのまま力を入れて物体Bを抜きとった。
 その、カーテンの繊維を通りぬける音だけで、またしても姉の肩が大きく震える。

 一体何を想定しているんだ、と思いながら、侑記はカランと物体Bを床へ投げ捨てた。
 面が丸い物体Bは、ころころと際限なく転がり続け、やがてベッドの下の得体の知れない物体Cに阻まれ、即座に動きを止めた。
 物体Aともども、あとで拾えばそれで良いだろう。

 

 

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