湿度が高い日は、補聴器の調子が悪いのでさらに憂鬱になる。
ざぁざぁとノイズが激しく、人の声が聞こえづらい。
むわりと鼻をつくさびついたにおいは、きっとろくすっぽ掃除をされたことがない、窓枠のレールのせいなのだろう。
そのにおいだけでも十分に気が滅入るというのに、給食で出てきたアンパンの大きさが、日に日に縮小してゆくさまもまた、ずいぶんと侑記の気持ちを萎えさせた。
縮小してゆくものは、何もアンパンにかぎった話ではない。先生の好きなカントリーマアムもアルフォートも、アメリカンソフトクッキーもチロルチョコも、ことごとく小さくなってゆくこの現代社会において、人間たちの気が小さくなってゆくのは、至極当たり前の理論であると思う。
その証拠に、がたりと席を立って歩いてゆく紗弓の背中は、いつものことながらずいぶんと丸く縮こまっているように思えた。
「先生、こんなものがわたしのポケットの中に入っていたんです」
紗弓がとげとげしい言葉とともに、担任の教卓へ近づいていったそのとき、教室内にはちょうど給食の放送が流れているところであった。
そのときは最近のヒット曲とともに、明日の予告などが楽しげに流れ始めていたところだったのだが、そもそも給食の放送を注意して聞いているのは最初のうちだけで、今では誰が始めたのかわからないおしゃべりが、すでに赤い火の粉をあげて炎上し始めている。
明日のことになど、誰も興味を持てるはずがなかった。
ましてや紗弓が何やらせっぱ詰まった様子で、教員に向かって話しかけている事実など、クラスメイトたちはもっともっと知らないわけだから、その光景を見つめていたのは、侑記を含んだ数人程度であったのだろう。
引き結ばれた薄い唇の横には、大きなにきびが赤く腫れあがった状態のまま残されていた。
「どうしたの、紗弓ちゃん」
すでに給食を食べ終え(とはいっても、生徒ですらきちんと食べているようなミニトマトだけは相変わらずしっかりと残っていたが)、口の周りをティッシュペーパーでふいて、口紅を付けなおそうとしているところだった担任が、彼女の方を振り返る。
紗弓は一度言ったことは二度言いたくない主義だったので、そのまま黙って固く握った自分の拳を、担任の目線までつきだした。
「これが、ポケットに入ってたんです」
至極いらいらした声音ながらも、表情の方はあくまでもそれを押さえつけようとしていることがよくわかった。
彼女の手の中からは握りしめられた蜜柑の汁が、ぽたぽたと点滴のように滴り落ちていた。
木の下に落ちてつぶれた蜜柑を目撃したときのような甘ったるいにおいが、押しつけがましくあたりに立ちこめて、担任が眉を寄せたのが目に見えてわかる。
その蜜柑はすでに、食べかけだった。
ミカンの果肉のみをかじって汁を吸いだし、透明な袋の部分だけを残した状態で、彼女の手の中からごっそりと溢れだしていた。
わずかに残った果汁と、誰のものともしれぬ唾液とが混ざりあって出来た液体が、ぽたりぽたりとまた何滴か床に落ちてゆき、彼女の足下に色のない水たまりを作っている。
担任は一瞬だけひきつった笑みを浮かべた。
「どうしてそんなものが入っていたのかしら」
「しりません。でも、たぶんあの子がやったんだと思います」
つり上がったこわい目つきで、紗弓は彼女に悟られないよう、ちらりと該当の席をにらみつけた。
にらんだ場所に細かな亀裂が走って穴があいて、赤く灯って火がついて煙が上がってもおかしくないだろうと思うほど、ぎらぎらと鋭い光を発したどす黒い瞳だった。
にこやかな笑顔を振りまき、反対側の男子生徒と楽しげに話しているのは、このクラスで一番のお嬢様と名高い、福田マリという少女だった。
西洋的な美しさを思わせる彼女は、防災ずきんも、本を借りた場所に入れておく板も、学校の夏休みの課題ですらも、全部トールペイントの得意な自分の母親の手製のものであった。
噂によれば、週に一度は母親から娘の様子を案じる電話がかかってくるらしい。
平生であれば彼女は紗弓の後ろの席であるはずだが、給食の時間だけは机の向きを横に並べ替えるため、今は彼女の隣の席に座っている。
確かに、あの位置からであれば、紗弓の右ポケットにこっそりと蜜柑を忍ばせることができるのかもしれない。
しかし、それにしても福田マリはいったいなんのためにそんなことをしたのであろうか。
侑記がそう思った瞬間、担任の女教師は驚いたように目を見開いた。
「なにを言ってるの、紗弓ちゃん」
紗弓がにらみつけた視線を戻し、担任の方に向きなおった。
その顔が疑問の形に歪められるその寸前、担任は有無も言わさず早口にまくしたてる。
「だって、さっき自分の手で食べかけの蜜柑をポケットに入れていたでしょう。先生、ここで見てたもの。福田さんがそんなことするわけないでしょう」
紗弓は愕然と目を見開き、硬直した。
次第に蜜柑を握りしめた手が小刻みに震えてゆくが、それは怒りのためなのかもどかしさのためなのか、それとも悲しみのためだったのか判断がつかなかった。
紗弓は大きく口を開いた。その口からは、さて一体どんな罵声が飛びだしてくるのだろうかと侑記は身構えたが、紗弓の口は何度かはくはくと息をつないだだけで、結局再び閉じられることとなってしまった。
きつく引き結ばれた唇はぶるぶると震えるだけで何の意味もなさず、たまに開かれたとしてもそこから聞こえてくるのは荒い呼吸の音だけで、それ以上のどんな音も飛びだしてくる気配がない。
勝ち誇ったような担任の顔が、どうしたの、言いたいことがあるなら言いなさいよ、と言わんばかりに、ますます強気な目つきで彼女を叱る。
挑発されればされるほど、紗弓の顔はどんどん真っ赤になって、真っ赤になればなるほどいっそう彼女の唇は小さくすぼまっていった。
ああ、爆発しそうだ、と侑記は思った。
全身の震えだけがどんどん増幅していく姿は、そのまま破裂してしまいそうな風船を思わせて、侑記は少なからずぞっとした。
ぞっとしたと同時に、すぐ隣でまったく関係のない下品な話題で盛り上がった男子生徒たちが、甲高い声で沸騰するような爆笑をして、そのいやに呑気な声にもますますぞっとした。
いま、あの小さな胸の中には、醜いタマネギがドロドロに溶解して、ついには液体となって吐きそうなほど強烈な異臭を放っているのだろう。
それを直接相手にぶつけてしまえれば、どんなに胸通りが良くなるかわからない。
けれど、その溶解タマネギはご丁寧にも相手にも解読できる形に直してから吐き出さないと、吐き出したことになんかならない。
その変換の作業がうまくできないから、彼女はいつまでもああやって全身から湯気がでそうなほど真っ赤になったまま、声も出さずに拳を握りしめて突っ立っているしかないのだ。
まるでお腹をすかせた猫のように、せめて言葉にならずとも泣き声だけは吐きだしてしまえばよかったのに、紗弓はご立派な人間の一種であるから、それができない。
一度そんなことをしようものなら、いずれは言葉が退化してゆくだけだと知っているから、彼女はあくまでも彼女のままでいようとする。
そうして、もはやすっかり原型を失った蜜柑みたいな不細工な物体を、ポケットの中にあふれかえるほどたくさん詰めこんでいる。
しばらくの睨みあいののち、紗弓は信じられないという表情を顔全体に仮面のように張り付けたまま、のろのろと蜜柑を握っていた手を下げる。
蜜柑の汁でべたべたに汚れた手を握ったまま、彼女はしばらくその場に固まっていたが、ややあってぎゅっと目を閉じると、突然両手に握っていた蜜柑の屑を口の中に押しこんだ。
担任が目を見開いている中で、紗弓はもぐもぐと口を動かしてそれらを咀嚼している。
鼻に皺が寄るほど顔をしかめて苦しそうに噛んでいるうちに、彼女の目からは三滴の大粒の涙がこぼれた。
口からはみ出した唾液と涙と蜜柑の汁が顎を伝って流れた。
そうして彼女はやはり無言のまま、顔を洗いに教室から出ていった。
侑記は誰にも気づかれないよう、あくまでも自然に教室の扉を出て、そこからは一気に駆けだした。
廊下の角を曲がり、暗くて生徒たちにはあまり利用されない、職員室側の階段を上がったところで、いろいろなものを溜めこんで湯気を上げている紗弓の後ろ姿に出くわした。
彼女は階段の壁に拳を打ちつけると、両手で前髪の生え際辺りをガシガシとかきむしっていた。
泣いているのかと思ったが、案外そうでもなくて、彼女の背中はそれよりもずっと大きな憤りのようなものに満ちあふれていた。
対する自分の方はというと、もっと取り乱しているかと思ったら、案外そうでもなくて、むしろ彼女の背中から飛びだしているシャツ裾の方が気にかかっていた。
「……ごめんね。紗弓」
言った声はすこぶる落ちついていて、平坦だった。
たぶん、侑記が助け船を出せなかったために謝っていると理解したのだろう、紗弓が長い黒髪の隙間からじっとりと湿っぽくこちらを向いた。
黒髪とコントラストを織りなす血走った目が、一昨日図鑑でみた毒キノコの姿を思わせて、ああ、今なら彼女は首を絞めて何かを殺せるな、と侑記はひどく自分勝手なことを思った。
そしてその矛先が自分に向かったとしたら、それはそれで仕方がないな、などとも考えていた。
「ごめん」
もう一度謝れば、なんで、という形に紗弓の口が動く。
本当に声が出なくなったのかと思うほど、彼女の口からは言葉という言葉がまるっきりでてこなかった。
――なんで、謝ってるの。
「わからない。でも、謝らなければならないような気がして」
取りつくろうようにぎこちなく言うと、紗弓は何故か強張っていた顔を崩して笑った。
そうしてさっきまでさんざん怒っていた顔をくしゃりと歪めて、ぼろぼろとみっともない涙をこぼしながら声を出して笑った。
けたけたと笑いながら痙攣するようにしゃくりあげて、「たまにはこういうのもいいね」と、今度は場違いなほど呑気なことを言った。
そうしてその後にくしゃみとは呼べないほど小さなくしゃみを、立て続けに三つほどしてからもう一度情けなく微笑んだ。
あんなくしゃみじゃすっきりしないよなぁと憐れに思った侑記は、それでもやっぱり彼女と同じように眉を下げて笑うしかなかった。
侑記は思う。
今日の昼休み、
彼女はきっとオルガンを弾かない。
きっと、雨だれの滴る彼女の机からは、ごりごりと紙くずを切り裂くシュレッダーの音が聞こえて来ることだろう。
ががががが、ぐしゃぐしゃぐしゃ、という、歯茎に何かが挟まったような、すさまじい轟音が。