Scene15-1

水槽の橋-1


 いつの間にか、家の外壁が淡いピンク色に染まっていた。

 確か足場を組み始めた時点では、外壁はベージュ系のクリーム色にしよう、という結論で話がまとまっていたはずなのだが、屋根を焦げ茶色に塗ってしまった時点で、なにやら母親と姉が勝手に相談事を進めてしまったらしい。
 ご機嫌顔の母親に、この色の方がアポロみたいでかわいいでしょう、などと告げられてしまえば、そうだねとしか返しようがないのが現状である。
 全くもって彼の家では、洒落が現実に、または現実が洒落になってしまうのだからたちが悪い。

 かく言う昨朝も、父親を車で駅まで送り届けようとした母親が、後部座席に積みこまれたスーツケースを父親本人と間違えてしまい、彼を乗せずに駅までひとっ走りしてしまったばかりなのである。
 母親は車を発進させた後も、依然として父親の不在に気がつかず、後部座席のスーツケースに向かって「今日は遅くなるんですか」とか「お夕飯は何がいいでしょうね」とか、返答が返ってこないことに虚しさを覚えながら、それでもひたすらに話しかけていたそうである。
 四十をすぎた今でこの調子とあらば、老後の彼女に関しては相当な覚悟が必要と思わざるをえない。
 思わず姉と侑記は深刻な顔を突き合わせてしまった。子どもたちはいたって真面目なのである。

 したがってこの日の侑記は、今後は自分の家を紹介する際に「公園の前のピンク色の家だよ」と説明しなければならないのかと思うと、どうにも捨てがたい虚無感にとらわれていた。
 そもそもまっすぐに家へ帰ること自体が億劫で、四丁目のイトーヨーカドーにでも足を伸ばそうかと考えた矢先、ふと目に入った光景に彼は足を止めた。

 校庭から続く坂道を上り、サイゼリヤを右に折れたころ、抽象的なオブジェを通り過ぎたあたりに、金持ちの別荘と称される有名な屋敷が建っている。
 いっぱしの家でないことは重々承知しているが、この屋敷のぜいたくぶりには、子どもである侑記も少々あきれざるをえなかった。
 何せ、放っておけば無駄に門の色が赤くなったり、塀の高さが一段増えたり、はたまた突然大きな桜の木が庭先に植えこまれたりなどするのである。
 あげくの果てには隣の敷地内に、ろくに使われていないテニスコートまでもが設置されたりするので、はっきり言わせて頂くと、本当にただの金の無駄遣いにしか思えなかった。
 どうしてそういう余り金を、発展途上国のチャリティに寄付しないのかがいまひとつ理解できない。

 そういうわけで、侑記はその屋敷のことがあまり好きではなかった。
 そんなあまり好きではない屋敷の扉の中に、やけに見覚えのある影絵が滑りこんだような気がして、侑記は思わず歩みを止めてしまう。

 鏡のように磨きぬかれた、白銀の大理石に映りこんでいたのは、同じ色を持つ猫のシルエットであった。
 重厚なチョコレート色の扉は開きっぱなしになっていて、すりガラスの向こう側には背の低い婦人の姿が映っている。
 どうやら扉の向こうにたたずむ人物が、例のペットを屋敷の中へ迎え入れようとしているらしい。

 ただでさえ気分の優れなかった侑記は、この光景を見た瞬間にさらにふてくされたように唇を曲げた。
 実は侑記は、この屋敷の主人が無類の猫好きであり、屋敷の中の一室を猫たち専用の部屋にしているのだ、ということを知っていた。
 さらに言えば、この屋敷の中で最も大切にされていた猫が、二年前に死んでしまったらしいことを知っていた。
 さらにもう一つ付け加えるならば、屋敷の婦人が死んだサバトラの猫によく似ていると称して、時おり散歩中の奈々を拉致しては、屋敷の空き部屋に連れ帰っていることも知っていたのだ。

 本人にはおそらく悪気なんてものはこれっぽっちもないのだろう。
 しかし、飼い主である侑記としてみれば、ひかえめに言ってもあまりおもしろい話だとは思えなかった。
 いくら金持ちの主人にとって奈々がお気に入りだとしても、彼女が侑記にとってもお気に入りであることに変わりはないのである。

 現行犯として目撃した今日こそが、さりげなく釘をさすのに絶好の機会であるのかもしれない。
 侑記は思い切り鼻息を吹きだしながら、チェック柄のシャツの袖をまくった。

 時刻は薄い空色の下に、ほのかなオレンジ色を溶かした夕暮れである。
 門の前にはどうやらインターホンらしきものが見あたらなかったので、侑記は意を決して外側の門をくぐることにした。
 さすがに入って早々防犯ブザーが鳴る、といった漫画のような出来事は起こらなかったが、大理石の上をスニーカーで歩くたびに、きゅっきゅと耳慣れない音が聴こえるのはどうにもこうにも落ちつかない。
 むずむずと気持ちの悪い緊張感を抱えていると、いつの間にやら屋敷の扉のそばまで辿りついてしまっていた。
 さてどうしたものか、と侑記は肩を落として思いあぐねる。

「どうかされましたか」

 結局、再び呼び鈴を探して車庫の周りをうろついている間に、庭の手入れをしていた家政婦にあっさりと見つかってしまった。
 とりあえず屋敷の住人に直接クレームを言うよりは、こうした手身近な人間に訴えかけておいた方が良いのかもしれない。
 侑記はなるべく眉間に力をこめ、精いっぱいの仏頂面を作ってから尋ねた。

「すいません、うちの猫が屋敷の中に入ってしまったみたいなんですけど、取りにいってもいいですか」

 どうせダメだと言われるのは目に見えていたので、ここからどのように文句を告げるか、というのが侑記の最大の勝負どころであった。
 しかし、家政婦は見るからに人のよさそうな笑みを浮かべると、まるで至極当然のようにうなずいてから応える。

「ええ、構いませんよ。どうぞ」

 箒を握った両手を胸の前に揃え、女性は実に華麗な一礼を決めた。
 その一瞬、深々と頭を下げてもらえたおかげで、ぽかんと口を開けた間抜け面が相手に悟られなかったのは、不幸中の幸いであるとしか言いようがない。
 間もなくして、すたすたと扉に向かって歩き出した家政婦は、木立のようにしゃきりと背筋を伸ばしており、一体彼女はこのような事態に慣れているのかそうでないのか、それとも侑記がまったく邪気のない子どもに見えたからたまたまこうしているだけなのか、その意図がまったくと言って良いほど見えて来なかった。

 ……仕方がない。ここまで来てしまえば、どうにかして奈々を連れて帰るついでに、屋敷の婦人に直接相談を持ちかけるしかないであろう。
 想像していた以上の一大事に頭を抱えながら、侑記は家政婦の女性に連れられて、とうとう屋敷の敷居をまたいでしまった。


 

 

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