Scene16

にゃんこ先生


 歯が抜ける夢を見ると、父親に不幸があると聞いていたが、意にも反して父親は元気にバイクに乗って、成田空港まで散歩に出かけていった。
 先行きの見こめない空港に何をしに行くのかと思いきや、なんと飛行機の写真を間近で撮りたいのだそうである。

 整っているか整っていないかという問題は別にして、父親は珍しく西洋的な顔立ちをしている。
 昔からおとなしそうな見た目によらず、エルトンジョンとかペットショップ・ボーイズとか、洋楽ばかりをラジオで聴いていたらしい母親は、父親の少しギリシャ寄りの顔立ちに一目惚れをしたそうだ。
 そんな彼はたいそうなバイクが好きで、最近は普通自動車免許のために、モータースクールへ通い始めた姉に便乗して、大型バイクの免許まで取ってしまったほどであった。
 しかし、金赤の大型バイクを購入し、さぁいよいよ乗るぞと決まったそばから、他の家のバイクに見とれている間に右わきに横転し、肘の骨を強打して骨折してしまった。
 あまりにまぬけな話だったので、手術をするとか針金を入れるとかいうシリアスな話を聞かされても、家の住人たちは荒唐無稽の笑い話にしていた。
 稼ぎ手は父親ひとりきりだというのに、のんきなものだ。

 父親は、よく後ろの座席に侑記を乗せたがる。姉も同じくらい頻繁に誘われている。
 二人がそろって断りの文句を入れると、すねた父親はリモコン式のカピバラのおもちゃで奈々たちと寂しく遊びだす。

 父親が横転事故(事故というほどのものではないが)を起こしてからというもの、侑記はあまり彼のバイクには乗りたくはなくなったのであるが、姉はいっこうに構わず、今でも時間の許す限りでは父の後ろに跨っていた。
 ふつう、あのような歳で父親の背中にしがみつくなど、恥ずかしくてイヤだと言いそうなものではあるが、姉は意外と楽しそうに後部座席に座っていた。
 たまに横断歩道で見かけると、実に不思議な光景である。
 まるで年の離れた外国人と援助交際をしている、可憐な女子高生のように見えなくもない。
 ……いや、もしかすると本当にそのように見えることを楽しんでいるのかもしれない。

 こんな具合にして、父親にはまったく不幸らしい不幸が訪れなかったのであるが、代わりに自分にはとんだ災難が降ってきた。
 どうも昨日の朝か昼か夜のいずれかに、ノートと手帳をどこかへ置き忘れてしまったようである。

 さてはクラスを移動した時か、と体育の見学中ににらみをきかせ、放課後の一時を狙って、わざわざ客用玄関前の事務室まで足を運んだものの、ここには届いていないとあっさり一蹴されてしまった。
 ついで、昨日の夕方に切手を買いに向かった、郵便局の方へも足を向けてみたが、やはりそこでも遺失物は発見されていないと突き放されてしまう。
 簡単に見つかりはしないであろうことは、彼自身も重々承知していた。
 だがしかし、授業のノートは次のテストに使うための大切なものであったし、残りわずかなスケジュール帳もまた、クリスマス付近の未来が予言された、大切なものであることには変わりがなかった。

 こういう時の侑記はなかなかにあきらめが悪い。
 結局その後、塾帰りに揺られていた電車という乗り物に、侑記は三本目のアンテナを立てた。
 これが三度目の正直になれば、今日の格言として居間のカレンダーに書きこんでおくつもりである。

 駅の改札口の一歩手前で立ち止まり、窓口を目掛けて懸命に背伸びをして、三度「すみません」と声を張り上げた末に、ようやく駅員の男を掴まえることが出来た。
 これは三度目の正直を狙えるか、という淡い期待がますますつのった。

 しかし、そのころには侑記はすっかり疲れはててしまっており、「どこで失くしたのかわからないのですが」と告げるべきタイミングで、「何を失したのかわからないのですが」という断り文句を入れてしまい、「それじゃあきみはいったい何を探しにきたんだい」と、駅員に本気で心配されてしまった。
 何を失くしたのかわからないまま、遺失物をあさりにきた子どもなど、ほとんど泥棒か不審者のどちらかとしか言いようがない。

 結局、なくした国語のノートもアディダスの手帳も、そろいもそろって仲よく見つからなかった。
 思い出せば思い出すほど、記憶はますます曖昧になって、両方ともサブバッグの中に入っていたような、あるいはそれ自体を電車の中で広げて読んでいたような、もしくは部屋のどこかに置きっぱなしにしていたような、そんなどっちつかずの考えにとりつかれてしまう。
 もしもこれが俗に言うボケ≠ニいう現象なのだとすれば、その間抜けなネーミングに似合わず、なかなかに恐ろしい病気である。
 記憶を頼りに予定を詰めてゆく作業も、ノートを写させてもらう作業も、どちらも途方もなく面倒で、想像するだけで全身がどっと疲れてしまった。

 ふらふらとした足どりで、駅を出る。
 左右に分かれた階段をまっすぐに降りて、バスターミナルを横目に自転車置き場まで回っていった。
 深緑色に塗りかえられたばかりの自転車ラックは、雨上がりの時だけ妙にさびついた鉄のにおいがする。
 侑記はまだ身長も力も足りないので、二段目のラックには自転車を置くことができたためしがなかった。
 中学生になるまであきらめなさいと姉には言われたが、ひょっとすると小林ならば余裕で自転車を置くことが出来たのかもしれない。

 ふと、自転車置き場の草むらの茂みに、一匹の茶とらがひそんでいるのが見えた。

「あ、にゃんこ先生だ」

 通りすがりの子供が、舌っ足らずの声でそんなことを叫ぶ。
 なるほど、ずっと昔からこの駅に住み着いているから、近所の人々にとっては有名なのかもしれないと思い当たり、侑記はしゃがみこんで猫の喉を撫でてやった。
 それにしてもにゃんこ先生だなんて、まるでどこぞの小説家の作品を意識したかのような名前である。
 文学好きの駅長が、ろくすっぽ考えず勢いでつけてしまったあだ名であろうか。


 ねぇ先生、
 僕は猫にはなれなかったよ。

 せっかくチャンスがやってきたのに。
 あの人は本気で、僕のことを猫にしてくれるって約束した。
 大人たちはみんな手伝ってくれた。先生も、あの人も。それなのに、最後の最後で“今の”紗弓が邪魔をしたんだ。

 あいつは、僕にとっての一体何だったんだろうね。
 あいつさえいなければ何もかもうまくいったんだ。本当だよ。
 僕は決して怖気づいたりなんかしなかった。どんな部屋に足を踏み入れたってこわくなんてなかった。
 その先に待ってるものを知ってるから、ちっともこわくなんてなかったよ。

 でも、あいつがすべてを壊して去って行ったんだ。
 顔はよく見えなかったけれど、最後はきっと笑っていたと思うよ。
 あんなに信じていたのにさ、紗弓は僕のことを裏切った。僕はとうとうおいてけぼりを食ったんだ。

 みんなから引き離されて、たった一人でここに取り残される。そうにきまってるよ。
 あいつさえいなければ、あいつさえいなければって今はもうそればっかりだ。

 どうすればいいんだろう。
 ねぇ、先生。



 茶とらは何も言わなかった。
 「にゃあ」の一言はもちろんのこと、ゴロゴロという喉の音さえも出さなかった。
 撫でる位置が悪かったのだろうか、お世辞にもあまり気持ちが良いとは言えない表情で、それでもしっかりと喉を預けていた猫は、やがてフイと背を向けると、その場からひょこひょこと歩き去ってしまった。

 沈黙の痛さがやりきれなくなり、侑記は思わず声を押し殺して笑った。
 声を口の中に閉じこめるようにして、まるで気違いか何かみたいにひたすら笑い続けていると、次第に肩ががくがくと震えだして、胸の奥が苦しくなってきた。
 笑いをこらえるのは案外大変なんだな、などと呑気なことを考えてみれば、歪んででこぼこした頬の上を、生ぬるい水が流れ落ちて来る。
 顎のあたりまでゆっくりと伝わる、ねばねばとした液体が気持ち悪くて、たまらず膝頭に顔を押し付けた。

 言うまでもなく、何もかもがむちゃくちゃだった。
 ズボンの上のボタンが額にひっついて、跡が残りそうなくらい強烈に食いこむが、構いやしなかった。

「侑記君」

 ふと気がつくと、いつの間にかすぐ近くに先生が立っていた、らしい。

「……これあげますから、どうか泣かないで下さい」

 そう言って先生は懐からマーブルチョコレートの袋を取りだすと、それを侑記の視界のぎりぎりまで持ってきてくれる。
 しかし、侑記は首を振ってそれを拒絶するしかなかった。
 先生の親切心は胸に染みこむほどあたたかかったが、もうこれ以上甘いものを口にする気力は起きなかった。

 先生は口の前に握りこぶしを押し当てて、いかにも不安げに逡巡したあと、ややあって紫色のジャケットの胸ポケットから、一枚のハンカチーフを取りだした。
 ハンカチーフというのは、先生がハンカチのことを指す際に用いる、ひどく独特な呼び方だった。
 侑記はのろのろと左手を上げてそれを受けとると、目の奥が痛むほど強くハンカチーフを押し当てた。
 暗闇の中にうようよと、破裂する白光が模様を描いて浮かび上がり、回転した。

「先生」
「はい」
「冗談だけど、先生のこと好きだよ」

 塩辛く濡れた頬を上げると、先生はわずかに目を見張って、けれどもすぐににこりと微笑んでから答えた。

「知ってますよ。――好きだってことも、冗談だってことも



 その日、何にもなれないことを知ったばかりの夕暮れは、中身を飲みほしたばかりの空き缶のようなにおいがした。






 

 

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