天気が良い日でも悪い日でも、彼女はいつでもそばにいた。
たとえ雨水が溜まってグラウンドが使えなくなったとしても、今度はみんなが一目散にアリーナの方へと走ってゆくからだ。
いったい彼らは何をしてるんだろう、と侑記が投げやりに問うてみれば、みんなは大縄跳びかバスケットボールをしているんだって、というひかえめな紗弓の筆跡が答えを返す。
したがって、運動をすることの出来ない人間たちの住む場所は、メダカの水槽がずらりと並ぶ教室の窓際のほかにあり得ないのであった。
だからこそ、二人の時間は延々と終わる気配を見せない。
オルガンの音色とシュレッダーが紙を切りきざむ音、そしてたまにチョークを叩きつける固い音が、昼休みに生みだされるすべての音なのである。
「どこに行くの」
「お散歩」
ゆえに、もしも今までの紗弓であったならば、こんな言葉を言うことすらありえなかったであろう。
侑記が怪訝な顔をしていると、彼女はあとから付け加えるようにして説明する。
「こんなに天気がいいのに、私たちだけ外にでないのは悔しいでしょう」
悔しいと言われれば、なんとなくそうかもしれないと思い当たって、侑記もまたガタリと席を立った。
それから特に誰かから身を隠すでもなく、二人は並んで悠々と歩き始めた。
校門を抜けると、落葉した葉のせいで道がまばらに見えなくなっていた。
特に乱暴にしようと思ったわけではないのに、まるでいらいらと落ち葉を蹴り散らしているような音がする。
それが二人分に膨れ上がって、さみしい秋の世界に響きわたるのだというのだから、これはまったくもって困りものであった。
頭の上からは熟れたぎんなんのにおいがして、それがまたとんでもない異臭を放っていた。
茶碗蒸しの中に入っているあの黄色い爆弾は、なめらかでふわふわとした卵の味を、いともたやすく台無しにする。
太陽の光は時々顔を出して二人の鼻筋を照らしていたが、目にまぶしいだけで北風の力にはとうてい勝つ気がなさそうだった。
椅子の上にかけていた上着を羽織ってきたが、とにかくひたすらに寒い。
おまけにティッシュをランドセルの中に忘れてきてしまったから、鼻が詰まって風の薫りがわからなかった。
どこに行くのかと問うてみれば、紗弓はテニスコートの上に登るのだと答える。
彼女の肩の上では、耳元だけを短く切りそろえた髪が、ふわふわと楽しそうにはしゃいでいた。
侑記の学校でいうテニスコートというものは、グラウンドの一番奥にある、古墳の上につくられた邪道なテニスコートのことを指す。
古墳の上ということもあり、コートに辿りつくまでの階段はとにかく傾斜がきつくて長いので、目前に陸上競技大会が近付くと、代表選手に選ばれた子どもたちは、あの階段を使って猛特訓を強いられるそうだ。
しかし、侑記も紗弓も、この先一生代表選手に選ばれることはなさそうなので、これが最初で最後の猛特訓であるに違いがなかった。
急ぐ必要はどこにもないので、階段を一段ずつゆっくりと上がる。
落葉する一歩手前の、黄色とオレンジを混ぜ合わせた木々が、階段の上に細かい影を落として揺れていた。
なんとなく、あの夜の公園に向かうまでの、白く照らされた階段の姿を思い起こしてしまう。
あの事件が起きてからというもの、侑記は一度も夜の公園に訪れることがなくなっていた。
ランニングをやめると宣言してしまった以上、おそらくひとりきりで公園を訪れる機会など、もうほとんどやっては来ないだろう。
やがて、二人は最も日差しの近い場所に辿りついた。
後ろを振り返ってみれば、まだら模様を作る人気のないグラウンド。
その奥にそびえるコンクリート製の校舎の、そのさらに奥には緑色のフェンスと膨大な数の住宅の屋根が見える。
頂上に着いたとはいっても、特にこれといってすることが見つからなかったので、侑記は気休め程度にしゃがみこんだ際、一番近くにある草をブチリと力任せにむしってみた。
黄緑色のよもぎのような葉の間からは、ひゅんひゅんと細長い雑草が生えている。
細長い草の上には丸い水のしずくが二つぶほど乗っていて、触ってみると根本だけがほのかに湿っていた。
雨水がしみ込んだとはいえど、冬の空き地は草のにおいがほとんど枯れてしまっていて、かわりに鼻をつくのはほのかな土のにおいだけである。
風が吹いて、耳元をブンと一瞬ハチに似た羽音が通り過ぎる。おそらく小さなアブか何かだと思われる。
紗弓の周りには、季節を間違えて年老いたような、茶色い蝶のできそこないのようなものが、ばたばたと激しく羽ばたいていた。
「だめだよ侑記君。自分だけ未来を棄てようなんて、そんなのずるい」
指先に蝶をとまらせながら、紗弓はにっこりと微笑んだ。
彼女の黒くて細い髪の毛の上には、まるで髪飾りか何かのように無数の黄色い蝶がとまっている。
「それじゃあどうしてきみは、あのとき“未来のきみ”を殺したの」
侑記がついに口を開けると、紗弓は指の上で蝶を弄びながら、くるりとこちらを振り返った。
あの日を境にして現れた彼女は、今までの紗弓と比べれば信じられないほどに饒舌である。
その証拠に、以前に会ったときにできていた唇の横のにきびは、跡形もなくつぶれてしまっていた。
「だって、侑記君が猫になるなんて、たえられなかったんだもん」
「そんなことない。僕はそれにふさわしい存在だったよ、十分すぎるくらいに」
侑記がこの上なく真剣な眼差しでそう言うと、紗弓は少しだけ眉毛を下げてから微笑んだ。
風が吹くたびに前髪がこすれてかゆいらしく、彼女はしきりに眉間のくぼみをこすっている。
「ねぇ、侑記君。この先なにも変わらないとしてもね、侑記君にはこれからもずっとずっと言葉を探し続けてほしいんだ。だって、なにも考えずにニャアニャア意味のわからないことを鳴き続けるなんて、むなしいに決まってるじゃない」
言うなり紗弓は突然蝶たちの群れから手を離すと、テニスコートの茂みにバッタリと大の字になって寝転がってしまった。
普段は下ろしているはずの前髪が、横になったことで自然と真ん中から分かれて左右に開ける。