Scene2

サーカス


「……『このように、CDにかわるi-podの出現、および紙の本にかわる電子ブックの出現は、たしかに人々によりゆたかな生活をもたらすことでしょう。しかし、電子ブックではページをめくる手ざわりを、肌で感じとることはできません。わたしたちは本を読み返すたびに、少しずつ黄ばんでぼろぼろになってゆくページを見つめては、どこかほこらしい気分を味わったりもしていたものでした。しかし、デジタルでできた本は、永遠にきれいなままで、決して古ぼけることはないのです。』」

 安っぽい光の満ちた教室に、朗々とした彼の声が響きわたる。
 時刻は、先ほど食べたパンが、胃の中でじわじわと溶かされつつある十三時半である。
 この時間帯は、昼休みの後にすすめた掃除のなごりであろうか、浮遊するほこりたちが非常によく見える。
 ゆあーん、ゆよーん、ゆやゆよん、といった具合に飛び散る、数々のほこりの群れの中から、侑記はひときれのほこりに視線を定めた。
 それは、グッピーの尾ひれのように長くて美しい、ひときわ目をひく素晴らしいほこりであった。
 彼が堕ちる先をなんとしても見きわめたいと思い、侑記は小林の声などそっちのけで、じっとほこりの行く末を追いかける。

「『こうして、わたしたちの身の回りのものは、ほとんどがデジタルの世界へ引きずりこまれていこうとしています。これは時代の流れゆえにしかたのないことで、事実、今までも多くのメディアがほろびてきました。しかし、こんな時代だからこそ、私たちは、この手の中に確かにものが存在するという、物質的なあたたかみを見直すべきなのではないでしょうか。』」

 静まり返った教室の中でただひとり、椅子を引いて席に立っている小林は、何故だか教科書をさかさまに持ったまま、姿勢を正してまっすぐに音読を続けていた。
 ……否、彼だけではない。
 箱形の教室に押し込められた子どもたちは、全員が全員教科書をさかさまに持ったまま、きわめて真剣にそのページに視線を落としているのである。
 その光景は、さながら美術館に飾られているだまし絵か、はたまた間違いさがしの絵のようでもあって、どこぞのサーカスの雰囲気を思い起こさせた。

 教科書をさかさまに持ったまま、いかにつかえずに音読をすることができるか、というのが、この教育プログラムの内実である。
 つかえた者はそこで音読を中断して席につき、後ろの席の者がその続きから音読を再開する。
 以前、侑記がこのプログラムを実践したときには、わずか三文字ですでに脱落を余儀なくされていた。
 しかしいま、教室の真ん中で堂々と教科書を携えているあの少年は、なんとたったひとりで最初から最後までの『手触りのない世界 〜メディアの非実体化へ〜(金田俊之著)』を読み終えてしまったのだ。
 これには担任の教師はおろか、教室中の子供たちが一丸となって、勇者小林に割れんばかりの拍手を贈った。
 照れくさそうに席につく小林を後目に流しながら、ふぅんそうですか、と侑記は頬杖をつく。

 そうですか、物質的なあたたかみをもう一度見直すべきだとおっしゃいますか。
 しかしここらでひとつおうかがいしてもよろしいでしょうか。
 まずあなたのおっしゃる物質的なあたたかみというものについてですが、それは具体的にどのような根拠にもとづいているのでしょう。
 そもそも電子書籍とi-podはつめたくて、紙の本とCDがあたたかいという分類の仕方がよくわからない。
 僕が思うに、電子書籍とi-podは電力で動いていますから、モーターが発熱してむしろあたたかみを帯びている方であると思います。
 あなたは実体のあるものの方があたたかく、実体のないものほどつめたいと当然のことのようにおっしゃっていますが、この論理は現実的なレベルにおいて明らかに破綻している。
 それをどうやってこの僕に受け入れろとおっしゃるのでしょうか。

 したがって、侑記はこの教材についてまったく興味が持てなかった。
 そもそもCDにも紙の本にもたいした恩義がないので、ノスタルジィを抱こうにも抱ききれないのである。
 こんな無意味な評論を読んでいるよりかは、むしろ六四ページに載っている三好達治の、「蟻が 蝶の羽をひいて行く ああ ヨットのやうだ」を読み続けている方が、読むたびにまったく違った世界が浮き上がって来るような気がして、面白い。

「こら、及川君」

 六四ページを三回ほど読み返したそのとき、いつの間にか隣に歩いて来ていた担任によって、名指しで注意をされてしまっていた。

「授業中に別のページを読んでるんじゃない。今はカナダさんの評論を読む時間でしょう」

 国語の時間に国語の教科書を読んで、それでも注意されることについてはなかなかに不本意であったが、それにしても、金田さんと書いてカナダさんと読むとは、なかなかに斬新な発想である。
 これもグローバリゼーションの流れの一環だろうか、などと意味のないことを考えながら、侑記はすいませんと小声で謝って、もう一度元のページに向きなおった。
 担任の教師は、教卓の前でわざとらしい溜め息をつく。

「まったく、先週の学年集会で、小学五年生は中だるみの時期になりますから、気を抜かずに勉強はげむように、という大山先生のお話を受けたばかりだというのに、近ごろは授業に集中していない子が多すぎるようですね」

 全然関係のない人物をまるごとひっくるめた、集団的なお説教の時間が始まった。
 隣の席の彼女は大丈夫だろうか、と途端に不安になり、侑記はちらりと少女の方へ視線を向けてみる。

 案の定、紗弓はしきりに自身の髪の毛を引っ張ったり、髪の毛の先の分かれ目を細かく裂いたり、爪と肉の間の皮をむいたりなどしながら、いらだちのすべてを必死にごまかそうとしていた。
 その行為自体はものすごく痛そうだったが、驚いたことに窓際で剥かれる彼女の指は、とてもとても美しい。
 まだ一度も剃られたことがないであろう少女の指毛が、落ちてきたばかりの日光に照らされて、秋の稲穂のように白く光っていた。

「とにかく、今後もう一度このようなことがあったら、先生は容赦しませんよ。先生が子どものころなんかは、廊下の外に立たされたことだってあったんですからね」

 ああ、いいなぁそれ。
 侑記はシャーペンの背を歯に当てて、カチカチとかすかな音を立てる。
 廊下の外に出されたら、そのまま一足先に休み時間に入れるじゃんなどと、後ろの席の二人がこそこそと耳打ちし合っていた。おおいに同感である。
 しかしそれにしても、どうして大人たちは、むやみやたらと自分の過去のことを話したがるのだろうか。
 内容は「廊下に立たされた」という非常に不名誉な経験であるはずなのに、あたかも廊下に立たされていた時代の方が良かった、と言わんばかりの口ぶりがなおさら不思議である。

「先生ー。おれ、ここがわからないんすけどー」

 突然、小林がぱっと大きく手を挙げた。
 なんですか、小林君、という気持ち悪いほど優しげな顔をした担任が振り返って、侑記は冗談を抜きにして本当に吐き気がした。
 質問を受ければ答えざるを得ない担任は、説教をほっぽり出して生き生きと該当箇所の解説を始める。
 今度は教室中の生徒たちが、英雄小林に向かって(心の中で)スタンディングオベーション級の拍手を贈った。
 それが果たして当人に届いているかどうかは定かでないが、それでも彼は最後にちらりと侑記の顔を顧みると、そのまま口の端を持ち上げて、ニカッと道化師のような笑みを見せた。
 彼は他人よりもやや出っ歯であるから、少し口を開けただけで、とたんに人が善さそうに見えるという特権を持っていた。

 ハイハイ、と侑記は気のない視線でうなずき返す。
 もう一度シャーペンの背を唇に押し当ててみると、冷たく冷え切った銀色のパーツが、噛みついてしまいたくなるほど心地よかった。

 グッピーの尾ひれは、あの後どこかへ飛んで行ってしまっただろうか。








 

 

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