夕飯の残り物のにおいがする夜道を走る。
一軒目がおでんで二軒目が豆乳鍋、三件目は何かよくわからないが、おそらくサンマを焼いて味付けした何かではないかと推測しながら、たったったっ、と一定のリズムを保って侑記は走る。
ランニングであるにも関わらず、頭の中からは何故だか小さいころに母親が聴いていた『TSUNAMI』が離れない。
ちょうど曲が最高潮の盛り上がりを見せ、「見つめあーうとー」と桑田佳祐が叫び出した辺りで、森に覆われていた視界が一気に開けたりなどすると、清々しいような悔しいような複雑すぎる気分に陥る。
空に浮かんでいるものはぼんやりと雲に覆われた半月で、その輪郭をうやむやにしながら白く光るさまは、どこか屋台で売られていた綿あめを思わせる。
息が切れるのも承知で、最後の階段を全速力で駆け上がった。
目的の公園にたどりつくと、持ってきていた大きめのタオルで汗を拭う。額から頬を拭い、首筋を拭い、腕も拭う。
雨の多いこの季節には珍しく、夜風はひどく乾いていた。
前髪の脇から垂れた髪の毛が耳元でぱさぱさと騒ぐその声が、一段とその乾きを際だたせているだけなのかもしれないが。
腐りかかった簡素なベンチの側には、大きさがまちまちの岩が点々と四つほど置かれている。
小さいころは、よくあの頂上に登れるか登れないか、という争いに近所の子供たち同士で燃えていたものだが、今見上げてみればそんなにむきになるほどの高さではないな、などと普通に思えてしまうのだとしたら、時の流れというのは虚しいものだ。
夜のランニングを始めたのには、特に深い理由はなかったように思う。
確か数年前に到来した意味不明のメタボブームの最中、運動熱心な上司の勢いにつき動かされて、我が家の父親もまた進んでランニングを始めたのであった。
最初は一人で走るよりも二人で走った方がいいから、という子どもじみた理由で、父親が自分のことを夜のジョギングに誘ってきたのだと思う。
しかし、買ってきたWiiフィットもマリオカートも、もともといろいろなことに興味を持つくせに長続きがしないことが多い父親は、とっとと戦線を脱落してしまい、結局侑記ひとりが取り残されることとなってしまった。
侑記は父親とはまるで逆である。
つまり、一度始めた習慣は、どんなにがんばってもなかなか抜けきってはくれない。
気がつけば一ヶ月に一度の週末、ズックの汚れを丹念に洗い流している自分がおり、そして毎晩夕食を食べ終えれば、玄関先でぴょんぴょんと準備運動をしている自分がいた。
頭にターバンのようなタオルを巻き、歯ブラシをくわえたままあきれ顔を作る姉に軽く挨拶をして、家を出る。
玄関マットの上で一昨日磨いたばかりの靴底がきゅっとこすれ、その音がまた実に爽快であった。
夜の野外は静かである。
風の音、木々のすれる音、ときたま道路の上にヘッドライトを焼きこんで通り過ぎる車のタイヤの音以外は、この補聴器はほとんど拾うことがない。
むしろ、視覚的にうるさいのは電燈の方だ。ボウルを二つ組み合わせて作った、丸いくす玉のような形をした傘の中に、レモン型のライトが入っていて、暗闇に丸い虹の輪をぼんやりと浮かび上がらせながら光っている。
左から三番目の電燈は、すでに蛍光灯が切れかかっているのか、痙攣したカエルのように点滅していた。
その誰もがいないと思われた空間に、ふと。
屋根のついた小さな休憩所の下に、突如人の気配を感じた。月の光が彼女の影を砂場に落としこんだためである。
何も悪いことをしていたわけではないのに、侑記は一瞬呼吸を止め、とっさにその場から後ずさってしまった。
驚きのあまり急に後ろに下がったせいで、スニーカーのかかとがぐらっと砂の中に沈みこむ。近所でパトカーを見かけたときと同じ心境だ。
女性はベニヤ板で作られたベンチのすぐ真横、不自然なほど密集した落ち葉の絨毯の上に立っていた。
おそらく昼間のうちにボランティアの人間が集めたのだろう。
彼女がひとたび足を動かすだけで、こつんと石の上にあたる彼女のヒールの音と、しゃり、しゃりりと合唱する、大げさな落ち葉の歓声が響きわたった。
階段も道も、どこからどこまでがあらかじめ引かれた道なのかわからないくらいに、まんべんなく黄色い落ち葉で埋め尽くされている。
街燈に照らし出されたその一群は、屍のように動きを止めていた。
昼間、風に踊らされて舞い狂っているさまが、妙にうそくさく感じられてならない。
足を運びかけて、ふと風の動きとともに静止する。
彼女の足下にはもう一つ、確かな命を宿す小さな影が見えた。
それは蛇のように長い尻尾を持つ、夜闇に溶けそうな一匹の黒猫であった。
首の周りの毛だけがわずかに長いその猫は、どんぐりの木の後ろに隠されている細身な人影の足下に、じゃれるようにからみついている。
身長が伸びるのと同時に、視力が下り坂を転げるように落ちていったから、夜闇にまぎれた女の顔はほとんど見えなかった。
頑として眼鏡をかけない自分も自分だと思ったが、コンタクトに手を出す勇気が出ない自分も自分だと思った。
“ゆうき”という名前であるだけに、どちらも同じくらいに気に食わない存在だった。
女性はそのまま身をひるがえすと、長い髪を黄色の世界へ少しずつ残しながら、やがては暗闇の奥底へ消えていった。
足元の黒猫もすたたたた、と彼女の背後について歩く。
口を開けていたつもりはないのに、風に当たった歯がずきんと痛んだ。
虫歯だとは信じたくないので、姉がよく言っているチカクカビンというものだと思いこむことに決める。
それからしばらくの後、侑記は突然唇をぎゅっと引き結ぶと、公園の入り口のシラカシの木まで一気に駆けだした。
一段飛ばしに階段を下りて、息を切らせながら反対側の歩道までまた走る。
「びっくりした」
口に出して言わないと落ちつかなかったから、誰にも聞かれない程度の声音でもう一度つぶやいた。
「――びっくりした」
そうしてもう一度、二分の一の月の光を浴びた。