Scene7-1

マグネット少年-1


 及川、おまえちょっと、こっちこっち。

 顔を上げずに、そんな曖昧な表現で上の名前を呼ばれた。
 小林が立っているのは、朝練習中の陸上部のかけ声が一番間近に聞こえる、教室のベランダの棚の手前で、彼はその白い棚の上に両肘をついたまま、ろくに見えてもいないだろう侑記に向かって、ほとんどあてずっぽうに声を上げている。

 侑記は素直に迷った。
 次の章まであと一ページ半という、微妙な状態の本を置き去りにする、そのどうしようもない状況に唇をかんだ。
 おまけにいつも愛用しているはずの、薄いステンドグラスのような金属製の栞が、今日に限ってどこにも見あたらなかった。
 そういえば昨日テレビの上に置き忘れたのだったか、二階に持って上がりなさいとさんざん言われたにも関わらず、もののみごとにタイミングを逃してしまった気がする。

「ちょっと、待って」

 いっそいないふりでもしてやろうかと思ったが、そういうときにかぎって、勢いよくはずれたブックカバーが、しゃっ! と音を立てて嘲笑ってしまう。
 仕方がなく鞄の中から適当に教科書を一冊取り出して、それをはさんだ。と、同時に膝の裏で椅子をがらがらと押しやって立ち上がる。
 上履きを床にすりつけたまま窓際に近寄ると、侑記が棚に肘をつく前に、なぁ、と小林がつぶやいた。

「おれのメダカ、一匹足りないんだよね」

 日の光を屈折させて整列するペットボトルの一員に、侑記はようやく視線を向けた。
 たしかに一週間前、一人五匹ずつという(これはキリが良いのだかそれとも悪いのだか)取り決めにもとづいて配られたはずのメダカが、彼の簡易な水槽の中には四匹しか泳いでいなかったのだ。

「水道で水をかえるときに、一匹間違えて流しちゃったんじゃないの」

 たしか、休み時間のクラスメイトたちの会話の中に、そんな実例が含まれていたことを思い出し、侑記は答える。

「そうかもな。でもさっぱり記憶にはないんだ」

 首をひねって不思議そうな顔をした小林は、えさやりの時間まではまだ早いのに、あえて澄んだ水槽のど真ん中に、有機物のにおいがするえさの粒を投げ入れた。
 思っていた通り、その食べる気がおきない異臭を放つメダカのえさには、四匹の仲間たちしか集まってこなかった。

「それか、水槽から飛び出して外に落ちてるとか」
「うん、それはおれも思ったんだけど、でも、棚の上も床の上も探してもいないし」

 探してもいないことに、心底ほっとしているような口振りだった。
 たしかに、燦々と降り注ぐ太陽の下、干からびて死んでいるメダカを見るのは、あまり気分のいい光景とは思えない。

「じゃ、共食いかな」
「毎日えさを与えてんのに、大人のメダカ同士で共食いとかありえないだろ」
「わかんないよ。小林、えさの量をケチったりとかしなかった?」
「してないっての。あ、もしかして隣の水槽に飛び移ったとかかな?」

 そう言って隣の水槽をのぞき込もうとした小林を後目に、もう一度ペットボトルに目を貼り付けた侑記は、あっと声を上げてボトルキャップ付近を人差し指で示した。

「そこ、いた。五匹め」
「えっ、マジで、どこ?」
「小林の右手のとこ。もう死んでる」

 そうだ、彼がペットボトルのキャップの近くを握っていたから見つからなかったのだ。
 数分間にもおよぶ捜査の結果、おたずねものは青白い目を見開いて、おまけに全身を血の気のない死に装束に染めて、ぷかぷかと水の上に浮かんでいた。

 小林はなにも言わなかったけれど、その代わりにものすごい速度で、さっきまで触れていたペットボトルから手を離した。
 それからしばらくの間、じっと右手のしわのあたりを見つめたあと、やがてズボンのポケットの上に手のひらを押しつけて、ごしごしと乱暴にこすりはじめた。
 何にも触れていないにも関わらず、侑記は小林のカーキ色のズボンの上に、白い糸カビがへばりついて広がってゆくさまを見たような気がした。

 死んじゃってたんだね、とはとてもではないけれど言えなかったので、代わりに侑記は「片づけなくちゃね」という、あえて物質的な言葉を選んでつむいでみた。
 二人にかぎらず、彼らの周りを囲っている男子生徒たちの間では、死ぬという言葉は深刻なときには使ってはならないという暗黙の了解があった。
 使うとしたらもっぱら悪ふざけか喧嘩のときだけで、おもにへらへらと笑いながら使われるべき道化の言葉だった。

 だから、夏休みに近所のご老人が呼ばれて、すさまじい戦争体験の話などをはじめると、彼らは一様に「さして関心がありません」という顔を作らなければならなかった。
 これは意外と労力を要するもので、侑記と小林は、残念ながらクラスの中でも決して得意な方の部類には入っていなかった。

「そうだな」

 ぎこちなくうなずいた小林は、教壇の上のティッシュペーパーを三枚くらい引きぬいて、ぱたぱたと折り畳んで厳重に手のひらを保護した。
 しかし、分厚さを保つために何度も折り返されたティッシュは表面積が小さく、結局小林は、何度もティッシュを広げたり閉じたりしながら、表面積と厚みのどちらを選ぶかについて真剣に迷っていた。

 あまりに彼が夢中になっているので、侑記はたまりかねて口を開いた。

「どうやって取り出すの」
「先生の机の中に割り箸とかあるだろ、あれを使おう」

 ステンレスの引き出しを下から順にあけて、箸を落としてしまった生徒たちの心強い味方を探そうとする。
 しかし、箸の入っている一番上の引き出しには、どうやら鍵がかかっているようだった。
 がんがん、とわざわざものすごい音を立てて引き出しを引きつつ、小林はちっと無意味な舌打ちをした。

「なんだよ、そんなに割り箸が大事だってのか」
「仕方ない、手ですくうしかないよ」

 どんなに気色が悪くともしょせんは他人事なので、侑記は表面上は淡々と、しかし心の底ではいつ小林が音を上げるかと楽しみにしながら、そんなことを提案した。
 そろそろ怖じ気付くかと思っていたが、小林は意外にもプライドが高いらしく、あくまでも平気そうなふりを装いながら、そうか、と質量の多い吐息を吐きだした。

「それじゃ、厚紙の切れ端ですくって捨てるとするか」

 なるほど、それはなかなかに良いアイディアである。
 ほっとしたようながっかりしたようなもやもやした気持ちを抱えながら、侑記もまた厚紙探しを手伝うことにした。
 確かこの間の掲示物作成のときに使ったものが、ロッカーの隣の扉の中に残っていたはずである。


 

 

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