未だ、残りものの雲が浮かぶ夜空の上に、ひときれの月が取り付けられている。
半月の傷口には、微妙な厚みの肉がこんもりと盛り上がっていて、淡く薄くぼんやりと、化膿していた。
点滅する飛行機、それが大気を真っ二つに切り裂いて飛びすさる音が、あちらとこちらからこだまするように交わる。
この前と同じ階段を、この前と同じようにひとつ飛ばしで駆け上がってみる。
最後の一段をドンと踏みしめると、ふくらはぎのあたりがじぃんと鈍く痛みだして、耳の縁が冷たく凍えた。
息が上がってどうにも仕方がないので、砂の上にわざとスニーカーの跡をつけながら、ざぁざぁ、ざぁざぁと雨音のように歩く。
敷きつめられた灰色の砂は、昼間のうちに蹴散らされたためだろうか、これまたずいぶんとまばらであって、それよりもむしろ下に埋まっている焦げ茶色の土の方が、思いのほか激しく目立っていた。
砂場には時おり、街燈に照らされてきらりと輝く、不思議な銀色のつぶが隠されている。
軽くひもに触れながら通りすぎると、きしむ音とともにブランコが少しだけ横に揺れた。
このブランコは確か、一番最初に乗ったときから数えて、およそ三回くらいは生まれ変わっている。
一回目に、ちぎれかけた赤いひもが別のものへと取り換えられて、次には立ち漕ぎ≠フ跡にさんざん汚された、ゴムの部分までもがより固いものへと変化した。
片手で少し突いただけなのに、ブランコの金具は悲鳴を上げて、そこからは一定の速度を保ったまま哀歌を奏でだす。
しだいに小さく消えてゆく、ブランコの声を横目に流しながら、今度は隣に並んでいるアスレチックにも手をかけてみた。
木片を組み合わせて出来上がっている遊具は、すべすべとした細かい粘土に覆われている。
辺りに沈澱する暗闇のせいで、へこんでいるところや弱っているところがわかりにくいから、大事には至らずともいちいちスリリングであった。
つめたく冷えた銀色の金属と、少し触っただけでトゲが刺さってしまいそうな木の棒をたよりに、
のぼるのぼる、ひたすらのぼる。
そうして侑記は、アスレチックの頂上に君臨したまま、ブランコと滑り台と鉄棒と砂場と、その他もろもろのあらゆる造形物たちを見下ろした。
街灯の近くに立つ、色づいたばかりの木の葉が、オレンジ色に照らしだされてほのかに揺れている。
足下には無数に散った落葉、それが中央から少しずつ広まるにしたがって、しだいに色を失い仲間を失い、尾を引いてなごり惜しそうに消えてゆくさまは、寂しくもありどこか悦ばしくもある。
アスレチックの柵と相まって、砂場に映る自身の影は、いつもよりもひときわ大きく見えた。
見上げた天井の底で星がまたたく。鼻から自然にひんやりとした風が入ってくる。
それを闇ごといっしょくたに飲み干してしまうと、どうにもこうにも落ち着いた気分がするのであるから、不思議であった。
段差の距離がわかりづらく、上ったときよりもはるかによたよたとした足どりで、アスレチックを降りる。
板と板の隙間から見える、うっすらと光る地面がなおさら寒々しい。
当然のことではあるものの、見渡した公園はあの時とさして変わったところは見当たらなかった。
ただひとつ、すでに切れかかっている電燈の灯火だけは、前よりも一段と暗くなってあの点滅している。きっと寒いのだろうななどと、ことさら適当な同情をした。
もうひとつ、変わることのない重要なものがある。
彼女がいた。そして、やはり彼女の足元には猫がいた。
しかし、この前のような一匹だけではない、茶とらとしま猫、合わせて二匹もの新入りがそこには加わっている。
まるで彼女の足がマタタビの枝であるかのように、三匹はごろごろと女性のスカートの裾へまとわりついていた。
この前も思ったが、まさかリードもつながずに猫と散歩できるとは、侑記は一度も考えてみたことがなかった。
猫は自由きままな生き物だから、飼い主の後をついて歩くなんてことは、絶対にできないだろうと勝手な思いこみをしていたのだ。
丸いくす玉状の街燈に照らされて、丘の上の落ち葉は静粛に輝いている。
それは、さながら地上の星のように人工的な光を照り返していて、侑記は乾いた口の中ではっと吐息を飲みこんだ。
色をなくした夜にのみ見える、金色だけが息づいた見たこともない世界だった。
一歩でもこの道に足を踏みだしてしまえば、彼女に気づかれてしまうことは痛いほどわかっていた。
だからこそ、音を恐れた侑記は微動だにせず、じっと彼女を見つめ続けるほかになすすべが見つからなかったのだ。
取るに足らない、黄金色のがらくたの真ん中に、彼女は立っている。
背後には巨大な銀杏の大木。街燈の光を丁寧に透かして、中間層にのみぼんやりとした黄色を宿し、足元と頭部からはあっさりと手を引いて、無抵抗に闇の中へと馴染んでゆく。
しばらくの間、そのようにしてなんともなしに女性のことを見つめていると、彼女はこちらに向かってさくさくと歩みを開始した。
おそらく横を通過していくのだろうな、と思って見ていると、予想にも反して彼女の方から声をかけられてしまった。
「はじめまして」
背中の後ろで指先を組み、女性はにっこりと笑って身をかがめる。
神秘的な月光に照らされた長身の、おまけに長い黒髪を持つその女性は、さながら絵本に帰る途中の魔女のようだった。
「そんなことないです。あなたとは、この時間に一度会ってる」
言った自分の声は、寒さに凍えているせいか眠気のためか、いつもよりもずいぶんと低く感じられた。
人工燈をより分けて咲く木の葉の下で、女性はもう一度たおやかに微笑む。
「それじゃあ、こんばんは」
「はい。こんばんは」
「きみは、どうしていつもここにいるの?」
ふと足元に視線を落とせば、地面のくぼみに積もっている落ち葉は、雨水と一緒に濡れてつやつやと光っている。
侑記は顔を上げて、逆光に染まる女性の影をじっと見上げた。
「僕は夜の公園が好きだから」
「ふぅん」
「昼間は、みんなが寄ってたかってブランコとかアスレチックとかを占領するでしょう。あれがいやなんです」
「そうね、それは
わたしもきらい」
ぴくりとも動かない女性の眉間を見つめた瞬間、何故だか唐突に、先ほど歩いている途中で蹴飛ばしたばかりの、ペットボトルの汽笛を思いだしていた。
スニーカーの内側がもったりと重くなる。
「あと、星が好きです」
「そう」
「欠けた直後の月も」
「そうね」
「あなたは、どうしていつもここにいるんですか?」
いい加減、自分以外の人間の声もきちんと聞きたくなったので、今度は侑記の方から問いを投げかけてみた。
どことも知らぬ遠い道路の上を、一台の救急車が通りすぎる。
「わたしは猫の集会に参加しなくちゃいけないから」
「猫の集会? いつも連れてる、あの黒色の猫?」
「なんだ。やっぱりきみも知ってたんだね」
彼女はここで、どういうわけだかものすごくきれいな声を立てて笑った。
「きみもいっしょに来る?」
「行ってもいいものなんですか」
侑記がいかにも不安げに上目を使うと、彼女は軽く笑ってきびすを返す。
「――おいで」
それが、彼女から送られた一通の招待状になっていたとも知らず、侑記はのんきにスニーカーのひもを結びなおすと、大口を開けた夜道へと歩みをすすめた。