しゅわっ、とあたりに霧散する香りに、かたく閉じていた睫毛を溶かす。
それは、洗いたてのふきんをバルコニーの上で広げたような、爽やかなベールをまとった石けんの香りだった。
つい先日、ガラス細工の立ち並ぶ静かな店で、これでもかというほど首を傾げて買い求めたものだ。
ごくふつうの、ありふれた女性たちにとっては、コロンなんてもの、他にいくらでも選びようがあったはずだ。魅惑的なローズの香りとか、可憐な白モクレンの香りとか。
けれど、彼女にとって、それはどれもが存在意義すらもよくわからない、単なるきらびやかなおもちゃ箱に見えたのだ。
なにせ、彼女が今身につけているものすべてが、未だに慣れないものばかりなのだから。かたく肋骨をしめつけるコルセットも、今すぐ転べといわんばかりのスカートも。
たっぷりと風を含むフリルをなびかせて、階段を下りる。すると、もうそこには自分と同じ香りが集まりはじめていた。
あんなに途方もない時間とお金をかけたのに、それでも誰かと同じ香りを選んでしまうこともあるのだと、リツは痛感する。
だからこそこっそりと扉の内側に手をついて、ステンドグラスごしの青白い世界をそぉっと切り取って見るのだ。
「それで?」
きゃあきゃあとかしましい輪の中から、ひとつだけやけに低いその声を、リツは拾い上げた。肩下の髪がふわっとなぶられて、ベストの裾が慎重にはためくようなその音域。
「たしか嗇音さんは、お向かいさんのナオくんのことで、相談に来てくれたんだったよね」
「は、はいっ」
リツがまたたきひとつをする間に、扉の向こうからは白いブラウスの袖が擦れる、ほのかな音が聞こえてきた。
「わたしその、ほ。ほんとは、ナオくんのことは影から見つめてるだけでいいんだって、思ってたんです。だけど、でもその」
「うん」
「……この前、ナオくんと偶然ぶつかったときに、ずっと見てたって、言ってくれたんです。そしたら、なんだかこのままずっと見てるだけで、ほんとにいいのかな。って考えるようになって」
「うん」
落ち着いたやわらかなテノールで、ふんわりと相槌をうった男は、少しだけ首を傾げて頬を緩めた。
「そっか。それで、僕のところを訪ねて来てくれたんだね」
しゃべっているうちに、どんどん赤面してしまった頬を両手で冷やして、少女はこくこくとうなずく。
あらまぁなんてかわいらしいこと、と思わずよそ行きの言葉づかいでつぶやいてしまってから、ひとりで笑った。
「わかった。それじゃ、僕なりの最善策をしっかりと考えたうえで、なんとか彼に会ってもらえるよう手紙を書いてみるね」
「よ、よろしくお願いします!」
「はい、了解しました。……それにしてもおかしいよね、みんなこんなにかわいいのに、どうして想いに気がついてもらえないんだろう」
そう言って、容貌の整った青年はニッコリと笑う。
少女たちがうっとりと視線の色を染める中で、扉の向こうのリツだけがひとり、吐き気をこらえているのはいったいどうしたことだろう。
よくもまぁ、あれだけ寒々しいせりふを、恥ずかしげもなく言ってのけるものだ。故意に使っているならまだしも、それが全くの本心から告げられている言葉なのだという事実が、またしてもリツに痛烈な一撃を加える。
ちらりと視線を上げれば、手の中の羊皮紙に目を落としていた男が、今まさに差した影に気が付いて顔を上げるところであった。壁に手をついたままちょっと困ったように笑うと、リツ、という形に唇を動かす。
「……コルセットの紐、一段ずつずれてる」