Scene10

message for you-10


 ――そのとき。
 トントン、と扉を叩く音が聞こえた。いや、もっと正確に言えば、ドアノブが回り、ちょうつがいがきしんで、床をことことと歩く足音まで拾えていた。
 この店の主人を探しているのだろう、困ったように一階を歩き回る足音に、リツは身を軋ませてベッドを振り返る。
 昏昏と眠り続ける栄一は、いっこうに目を覚ます気配を見せなかった。ここに来てようやく、間近からその寝顔をのぞいてみると、思いのほか疲労の色が濃いことに眉をひそめる。
 何件もの依頼をかけ持ちしているとか、そのたびに集中力を要するとか、そういうことを超えた猛烈な何かが、栄一の身体から気力と体力を吸いとり、干からびさせていることは実に明らかだ。
 丸まった羊皮紙の残骸をいくつも蹴り飛ばし、リツは舌打ちとともに席を立った。
 ちらりと視界を過ぎった窓ガラスは、先ほどやんだばかりの小雨のせいで、薄い紗のベールをまとっている。
 おそらくまかないの時間なのだろう、隣の印刷屋からはジュウジュウと、卵とベーコンが焼ける幸せそうな音が爆ぜていた。
 あいつらは、今頃自分の息子がどんなことを思い悩み、どんな顔で寝ているかすらも知らないんだろう。リツは無性に腹が立って、行き場のない怒りを手すりにぶつけながら階段を下った。

 ところで、一階のリビングダイニングに侵入した足音は、ドアの前ですとんと立ちすくんだままだ。
 一体どこの世間知らずなお嬢さんかと思いきや、案の定、三段の階段を残していてもわかる、特徴的な後ろ姿が見える。リツは気の抜けた声でその名を呼んだ。

「……え。トリさん?」
「! わっ、あっ。リッ、リツさんっ!」
「ええ、ごきげんようトリさん。午後からは晴れて何よりね」

 にっこりと、聡明な淑女を演じてみせれば、トリは顔中を真っ赤にしてこくこくと頷いた。

「はっ、はい! ご、ごきげんよう、リツさん! ……あの、その。今日は、栄一さんはいないんですか?」

 鈴のなるような声でそう尋ねるなり、トリはじっとリツの顔をのぞきこむ。その、今にも潤みだしそうな熱い眼差しに、心臓がどきりと跳ね上がるのを感じた。
 彼女の口から栄一の名前が飛び出すと、とたんに背中の辺りが落ち着かなくなってしまう。彼女に親しげに名を呼ばれ、浮き足立たない男などどこにいるだろう。

「……あっ、ええと、ごめんなさい。今はその……仕事で席を外しておりますの」

 慌てて唇をまごつかせたリツは、自らの笑みが醜く引きつっていやしないかと、少しだけ気持ちを重くした。
 それをあえて吹っ切るように首を振り、明るい声で問いかける。

「彼にご用とは……愛しの想い人からお返事が届きましたの?」

 確か、郵便屋のコウタに手紙を預けてから、もう六日以上の時が経っているはずだ。
 リツが上目遣いになって計算していると、トリは帽子の鍔を引っぱって、くすぐったそうに身をよじった。

「いいえ、まだ……」

 でも、と一声続けた彼女は、ひまわりのように笑って顔を上げる。

「わたし、読み書きを勉強しようと思うんです!」
「え?」

 少女の言葉についてゆくことができず、リツは置いてけぼりを食った子どものような顔をした。
 そんな彼女に大きくうなずいてみせたトリは、きりりと頬の筋肉を引きしめる。

「先日、栄一さんに話を聞いてもらって、自分がいかに何もしていなかったかを痛感しました。あんなにすてきな手紙を書いてもらったんだもの、わたしだって、いつまでもひとりでメソメソしてないで、だれかに頼りっぱなしの自分を卒業したいんです!」

 彼女がこぶしを握りなおすたびに、ひよこのような髪の毛がほわほわと揺れる。
 その、どこまでも庇護欲をかきたてるふるまいに、リツは眉を下げて苦笑するしかなかった。
 この様子では、いくら彼女が自律を試みたとて、今度は周りの人間が黙ってはいないだろう。

 それでも、町随一の貸本屋の案内人としては、彼女の決意を笑うわけにはいかないのだ。軽く組み合わせた指先をほどき、自慢の本棚たちを背景に両手を広げる。

「左様でございますか。では、読み方と綴りが両方ともわかる辞書をお貸しいたしますわ。異国の方が勉強するために作られた本ですから、きっとわかりやすいはずですよ。あとはそうですわね……基本的なことが学べたら、読本としては……」

 すると、二冊目の本へと伸ばした右腕に、ゆるやかな温度が絡まった。
 怪訝に振り返ったその先には、見つめる者を和ませる笑顔がある。

「――いいえ」

 金色の少女はふるりと首を振り、内緒話をするときのように、人差し指をそっと口元に寄せた。いつもよりも小さく窄まった唇を使って、小鳥のように細い息でさざめく。

「わたし、文字を読めるようになったら、一番最初に読もうって決めてるものがあるんです」
「あら、一体何でございますの?」

 好奇に満ちた目でリツが尋ね返すと、トリはぱぁっと満面の笑みを浮かべた。

「はいっ! ……栄一さんが、あの方のために書いて下さった歌ですっ」

 その、一点の曇りもない笑顔を捉えた瞬間、リツは猛烈な痛みが心臓を駆け抜けたのを感じた。
 泣きだしそうな目元を焦ったように隠し、不要になった本を元の場所へと返す。

 ……かつて、栄一は譫言のような声で、こんな言葉を口にした。
 彼女の美しさに触れれば触れるほど、その距離がどんどん遠ざかってゆく。
 焦点の定まらない、歪んだ慕情にぐらぐらと酔って、吐き気がするほど気持ちが悪くなる。
 かさかさと錆びついた想いが沁みだしても、はけ口のないそれは、結局のところもう一度飲み干すしかない。
 日に日に胃の中を焼いてゆくそれは、より重たく深い闇の底に落ちて、引っ張り上げることすら叶わないのだ。

――ああ、返事なんて。

 栄一の絶望を知ったリツは、本棚の縁に手をついて皮肉な笑みを浮かべる。

――返事なんてずっとずっと、こなければいいのに。

 しかしながら、このどこまでも切なる祈りには、神様ですらも首を振るのだ。
 だって、あの手紙を書いたのは、ほかの誰でもない“彼”自身なのだから。
 天才的な才能を自ら殺そうとしている、孤独で寂しい代筆家なのだから。



 

back<<10>>next

 


inserted by FC2 system