Scene3

message for you-3


 すると、彼の視線はリツの舌から弾んで頭上を飛び越え、やがて遠い空の上へと辿り着いた。

「――雨が」
「あ?」

 唐突に、栄一が窓の向こう側を指し示す。

「降りそうだなと思ってたんだ。……たった今、ちょうどね」

 教会の鐘と、噴水の広場と、真白い灯台をまるごと覆いつぶすような、灰色の雨雲が迫ってきているのを、リツはマジョーラカラーの瞳でようやくとらえた。
 栄一がいちはやくそれに気がついたのは、持ち上げた羊皮紙の表面に、わずかな水気と重みを感じとったためだろう。
 大気中をただよう霧のくせして、やたらとはっきりとした輪郭を持っているそれは、へたをすればごろごろと摩擦の歌すら響かせそうな勢いだ。

「……ほんとだ。おもいっきりこっちに向かってきてやがる」
「ね。というわけでリツさん、窓を閉めてきてくれないかい」
「はぁ? なんでおれが……」
「僕より三センチほど窓に近いから」
「なめた理屈ぬかしやがって」

 けれども、そんなことを言い争っているうちにも、働き者の雨雲はせっせとこちらに泳いで来ているのだ。
 仕方がなくリツは、ヒールの底をコツコツと打ち付けながら、大きく開いた窓枠に身を乗り出した。きっちりと施錠をしてから右向け右、今度はワインレッドのタッセルを取り外そうとやっきになる――と、まさにそのときであった。

「……栄一」
「何だい」
「あれって、ひょっとしてまたおまえあての客なんじゃねーの」

 がばり、と栄一が身体を起こして立ち上がった。誰だろう、クレーマー? とかものすごくネガティブなことを第一声に上げる青年を、人差し指一本でシッと黙らせる。
 ねずみ色の路地をゆっくりと歩いてくるのは、比較的背の低いボブヘアの少女と、すらっとした金髪の少女の二人組であった。
 坂の頂上はアイビーの蔓にせき止められて、完全なる行き止まりになっているから、この道を渡ってくる者は、必然的に栄一かリツの店を訪ねに来ていることになる。

「……お友達といっしょに来てるみたいだし、リツの貸本屋さんに用事なんじゃないかなぁ」
「こんな雨が降りそうな曇天の中、長いスカートの女の子二人が、わざわざ重たい本を借りに来るとでも思うのか?」
「……。うー」

 のそのそと上着を羽織りなおし、栄一が下り階段の踊り場へと消えてゆく。さすがにこれ以上の依頼は困るなぁ、とかぼやく後頭部を見つめながら、リツもせかせかとそのあとに続いた。
 しかしながら、階段を一歩降りるごとに、閉ざされた窓のそばからはこつこつと冷たい雨音が紡ぎ出されて、やがてはサァァと静かな霧雨に変わり始めたものだから、栄一は慌てて扉の外へと駆けだして行った。

「大丈夫ですか!?」

 ばん、と栄一が扉を開いたのと、ばしゃ、とポーチの水はねがズボンをぬらしたのは、ほとんど同時のできごとだった。
 肩越しに来客の姿を認めたそのとき、まずはじめにリツがとらえたのは、しっかりとつながれた二人ぶんの手のひらだった。
 澱んで空虚な闇を落とす一面のなかで、その華奢なひと組の手の甲だけが、淡く白い光を放っているように感じられたのだ。
 続いて飛び込んできたのは、細かい水玉模様が点々とあしらわれた、サーモンピンクのワンピース。スカートの裾からはちらりとレースの靴下がはみ出していて、赤いリボンがふわふわと宙にさらわれている。
 そうして最後に、リツはとうとう彼女の顔に視線を当てることとなった。……否、そうではない、吸いこまれざるを得なかったのだ。

 少女はおそらく、誰の目から見てもまちがいなく天使だった。
 暗く沈んだ世界の中にあってさえ、くっきりと輪を描く金糸の髪は、しなやかに波打ち細い腰の下で揺れている。雨雫が、束になって湿った睫毛から、薄い金色の前髪から、細く小さな真珠の玉を作って、ぽたりぽたりと色白く伝い落ちた。
 そんな少女の姿を見つめていたら、目の前がかすむほどに息がつまって、むせかえる花の香に耐え切れなくなる。
 冷静に考えればつまるところ、彼女はどうしようもなくはかなくて、途方もなくうつくしすぎたのだ。

「ど、どうし……! ――いや、今はいい。とりあえず上がって!」

 いつもは遠くから響くような栄一の声が、今日は珍しく上ずっていた。
 玄関から一歩も動けないリツをさしおいて、彼は濡れて小さくなった二人の肩を引き寄せると、あっという間に赤煉瓦の建物へと引っ張りこんでしまう。
 だから、どうしてそこでおれの家の方に駆けこむかな、とか意味のない突っ込みが頭の中をもたげたのだけれど、残念ながらそれを適切なタイミングで告げるには、いささか唇の乾きが足りなすぎたのだった。





 

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