Scene4

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 左目の端で、暖炉の火が低くぶれていた。
 外気と温風の狭間でぬるくなった、読み捨ての本に爪をかけ、サイドテーブルから順番にどかしてゆく。
 ちょっと待ってて下さいまし、今からここらを片付けますわ、といつになく品の良い笑顔を振りまきながら、少女たちに分厚いタオルを配っている間、ふと目を離したすきにはもう栄一の姿がない。
 一体どこへ向かったやら、と歯を食いしばって目を光らせると、件の男は実にこなれた手つきで、カップボードの砂糖とミルクを鼻歌まじりに選別していた。
 どこまで他人の家に詳しいんだ、と呆れつつも視線を戻し、家中をぐるりと回りながら、はみ出している背表紙をぽんぽんと叩いて回る。
 頭にタオルをのせたまま、ソファに沈みこんでいた二人組は、ぽかんと口を開いて貸本屋の商品たちに見とれていた。
 まるでわが子を褒められているような気分になり、得意げな鼻先がくふんと踊る。

 リツは、貸本屋の一人息子として生まれた。
 幼いころから数々の伝記や航海図、学術書などの題目を徹底的に叩きこまれたリツは、生粋の文学マニアとして丹念に育て上げられた。
 その成果が実り、色白の、おまけに線の細い少年として成長したリツの、特殊な容貌に目をつけた父親は、ある朝とんでもない迷案を思いついてしまったのだ。
 貸本屋に集う客層は、老学者や愛読家はもちろんのこと、流行に敏感な若娘たちが多い。そのため、彼女たちにとって最も親しみやすい、看板娘として店に立てば、よりいっそう店が繁盛するのではないか、というわけである。
 これにはさすがのリツも茫然自失し、ライム川のほとりでハンカチーフを噛み締め、人目もはばからずさめざめと泣いた。
 それでも、こうして女として生きる道を選んでしまったのは、ひとえに自分の家の本たちに対する、なみなみならぬ愛着ゆえだ。

 困ったことがひとつだけ起こった。
 鳶色の印刷屋の息子・栄一が、やたらと頻繁にリツの家に遊びに来るのである。
 町随一の小中高等学校をトップで卒業し、異国語の読み書きにすぐれた才覚を発揮する少年は、リツの家の本を勝手に持ち出しては、自室で読みふけっているという始末であった。
 もともと貸本屋と印刷屋という関係上、両親同士の仲も親しいせいもあってか、お互いの遠慮というものは、ここでいともあっけなく崩れさってしまった。
 結果、栄一の部屋はリツの部屋でもあり、リツの家もまた、栄一の家のようになってしまった。
 この厄介な習慣は、大人になった二人にも否応なしにつきまとい、貸本屋に入り浸っていた栄一が、本物の店員と間違われたまま、店内を案内していたなんてことも、ごく普通のありふれた光景となってしまっている。

「そういえばお嬢さん方、お名前は?」

 ほれみろ今も、きっとそうだ。とリツは長い睫毛を弾いて眉をしかめた。
 トレイにティーセットを乗せたまま、軽やかに歩いてきた栄一は、二人の顔を下から覗きこむ。その気さくで思いやりに溢れたまなざしを受けて、少女たちはようやく口を開いた。

「しょ、翔歌……ぐすん、と、トリ……です! ひっく」
「ネネ」

 下を向いて肩を震わせた少女のあとに、刺すような視線の少女が端的に名乗りを上げた。
 ふむ、と栄一はポットを傾けながら問いを重ねる。

「ふたりはどういう関係なの? お友達? それとも」
「ううん」

 刃物のようにきらめく瞳を細めながら、黒髪の少女が薄く唇を開く。

「知らない子」
「知らない?」
「泣いてたから、とりあえずここにつれてきた」

 ここは交番じゃありませんよ、などという軽薄な冗句は、とてもではないが口にできる雰囲気ではなかった。
 現に、トリと名乗った例の少女は、借り物のタオルを口に押し当てたまま、先ほどから延々としゃくりあげている。

「そっか、ありがとう。こんな遅くにごめんね」

 それでも、不安げな空気など微塵も気にとめていない栄一は、最後の紅茶を注ぎ終えて満面の笑みを浮かべた。
 相変わらず空気読めないやつ、なんてリツがげっそりと考えていると、紅茶を並べ終えた手がぽん、と伸ばされ、少女の頭を撫でて気まぐれに離れてゆく。

「――僕は、恋文の代筆家をしてる」

 はっ、と少女の顔がタオルの上から離れた。
 真っ赤に腫れた瞼と、その中央で潤んでいる玻璃の蒼みが、一気に視界の中へと押し寄せて来た。
 その一瞬、わずかに栄一の手元が震えたように見えたものの、それでも彼は普段通りの平静さを取り戻して微笑むと、少女のまぶたを冷やしてやるかのように、そっと己の手のひらを押し当てた。

「会いたくて会いたくて、眠れないほど大きな想いに押しつぶされているのに、ことばを文字にすることが出来ない、歌を作ることが出来ないせいで、想いを諦めようとしていた女性たち。僕は、今までにたくさん出会ってきたよ。そんな彼女たちの役に少しでも立ちたくて、僕はこの仕事を始めたんだ」

 すっ、と音もなく目隠しを解き、栄一は穏やかな笑みを深めた。
 ざわめき続けていた空気が遠ざかり、宵の森が深々と生い茂ってゆく。

「もしもきみの涙が、迷いに迷って、どうしても捨てきれない願いに気づいた、その果てに流した涙なのだとすれば。どうか聞かせてほしい。その人のことをどれだけ愛しているか、その人のためにどれだけの痛みを刻んだか。その想いの深さを受け止めることができたら、僕はこの手で、何としてもきみの願いを叶えてみせる」

 だから、泣かないで。
 優しく目を細め、溜息のような声を響かせた栄一に、憂いを帯びた少女の視線がからんだ。
 ああ、間違いないな、とリツは直感的に悟る。

――あの目は、恋をしている少女の目だ。

 それも、途方もない御伽噺を飽きることなく思い描いては、夢から覚めるごとに絶望し、いっそ諦めてしまおうと心に決めていたのに。再び目の前をよぎった希望の風に戸惑い、たじろぎ、それでも懸命にすがりつこうとする、あえぐような少女の瞳だ。

 街灯の光が、道筋を描くように伸びて、カーテンの隙間からほんのりと差しこんで来る。
 シルクに包まれた手のひらがさしだされ、青年めいた声が「さぁ、」と誘った。

「きみの想いを、話してごらん?」






 

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