Scene5

message for you-5


 朝靄が彼の頬を濡らしていた。
 昨晩、二人の少女たちを見送ったそのあと、カーテンを閉めるのをすっかり忘れてしまったからだ。
 おかげで、雨に洗われて異様に澄んだ窓硝子が、いつもの倍以上も健康的な光を透かしている。机の上に散らばった羊皮紙の束や参考書、あげくの果てには羽根ペンから抜け落ちた繊細な羽毛の一本一本まで、影は零れたインクのように色濃く落ちていた。

 おい、と一言だけ声を投げ入れると、彼のまつげがぴくりと動いた。
 軽く投げ出された左手の拳に、急き立てられるように力をこめたくせに、そのまま力尽きたように突っ伏してしまう。
 舌打ちひとつを響かせたリツは、そのままゆさゆさと彼の肩を揺さぶりはじめた。

「おーきーろってんだよ! 今何時だと思ってんだ、おら」

 もしもここで彼が鈍い悲鳴をあげなければ、未だ夢の中だと思いこんでいただろう。それほどまでに長いあいだ、栄一は同じ姿勢で脱力しきっていたのだ。

「……おれだって、別に聞きたくて聞くわけじゃあないんだけどさ」

 ぽりぽり、と髪飾りの近くをかきむしりながら、リツが決まり悪げに視線を泳がせた。

「その資料、昨日のお嬢ちゃんの依頼……なんだろ?」
「……」
「っつうことは、官僚候補のエリート君よりも、はるかに面倒くさい相手なんだってことだよな?」
「ぐえー」

 奇妙なうめき声とともに、ずりずりずり、とカフスのボタンが引きずられて、黒髪の頭がみょこりと顔を出す。寝不足で据わった目をごしごしとこすり、栄一は乱れた髪の毛をワサワサとかき回した。

「――王子様だってさ」
「あ? なんだって?」

 今時小学生でも書くことができるような、最も初歩的な単語であったはずなのに、現実味がなさすぎてリツの反応は大幅に遅れた。
 きょとんとしたまま硬直している彼女を見返し、栄一の疲労の色はいっそう濁り果てる。

「だから、その。……ターメリック国の、第三王子」
「……。はぁぁぁああああっ!?」

 ば、っっっかじゃねぇの! と叫びだしそうになったリツの口を、弾けるように起き上がった栄一がかろうじて支えにかかった。
 むぐぐ、むぐぐごう! とか意味のわからないリツの言葉にも、的確な位置で相槌を打った栄一は、静かに、と鋭い吐息とともに囁いた。
 しかし、リラ通りの通行人がひとりもいないことを確認すると、目を伏せながら弱々しく首を振る。

「どうりで、あんな世界の終わりみたいな顔で泣いてるわけだと思って。そんなに裕福でもない、単なる時計屋の娘さんが、異国の王子さまと直々にお会いしたいだなんて、そんなこと……」
「あのな。てめぇで蒔いたタネだろ、どうにかしろよ」
「……。簡単に言ってくれるよねぇ」

 さすがの栄一も、今回ばかりは引きつった笑みを隠しようがないらしかった。疲労に負けたようにそっと目を閉じ、深い呼吸を吐きだしている。
 今にも倒れそうな背もたれを押さえてやりながら、リツは彼の足元に膝をついた。

「そんじゃどーすんだよ。今回の依頼はさすがに無理だって、あの子に謝罪しに行くのか?」
「そんなことはしないよ」

 こころなしか心外だと言いたげな表情で、栄一がむっすりと返答する。
 予想と正反対の答えを得たリツは、両目を白黒とまばたくばかりだ。

「へ。じゃあ、一体どうす……」
「リツ」

 先ほどまであんなにも眠たげだった彼の目が、くしゃくしゃの前髪のすきまから爛々とこちらを捉えた。
 ……あ、だめだこれ。とリツは生唾をのみこむ。あちらの世界へ飛び立っているときの、彼の眼光は厄介だ。あえて反応しないよう努めたのに、いやでも心臓が跳ね上がってしまう。

「ターメリック国の辞書と、歴史書を貸してくれ。大方の文法は頭に入ってるけど、失礼があってはいけないからね」
「は?」
「あとはそうだな、王家に伝わる伝統的な民話集とか、食文化とかも調べておいたほうがいいね。それから最新の新聞、雑誌、各国の政策と比較した情報誌なんかを見てみても、インテリジェンスでおもしろいかも」
「ちょ、え、おまえ。それ今から全部読むの。本気?」
「本気だけど」

 くるりと振り返った表情は、いっそ幼く見えるほどきょとんとしていて、リツは戸惑いながらも、言いかけた文句をまるごと飲み干してしまう。
 おまえな、あの本棚全部探すの大変なんだぞ、とか、おれだってそこまでヒマじゃねぇんだよ、とか。
 リツの内心を知ってか知らないでか、栄一はくすくすと喉を震わせて笑った。ひとしきり笑ったのちにやわらかに瞳を細め、いたずらっぽくリツの顔を覗きこむ。
 それは、遊びほうけた少年の目だった。リツの貸本屋からいくつもの本を奪い去り、夢中で読みふけった天才の目。

「とにかく、ありったけの情報を目にしてから、彼女の話を聞きたいんだ。それまでは下準備。ってなわけで、僕は今からちょっと席を外します」
「え。ど、どこ行くつもりだよ?」

 うろたえるリツを差し置いて、彼は悠々とじぶんの城をあとにする。振り返り際のウィンクとともに、奏でられた音色はことのほか得意げで。

「――ちょっとした素材集めにね」

 吸いこまれそうなほど、透明だった。






 

back<<5>>next

 


inserted by FC2 system