Scene6

message for you-6


 一度彼が通りを歩けば、そこには一陣の風が沸き起こる。
 認めたい気持ちなんてこれっぽっちもないけれど、それは動かしがたい事実なのだからしょうがない。
 深いけれど透き通る不思議な瞳に、さらりと揺れる黒髪。通った鼻筋に知的な眉。見つめる者を溶かす微笑みは、息が詰まるほどの優しさを秘めている。
 育ちの良さそうな紳士的な立ち振る舞いだけで、この町の事情をよく知らない女は、あっという間に恋に落ちてしまうだろう。
 それでも、その男と娘たちの間には、崩すことのできない圧倒的な壁があった。
――それは、彼が“代筆屋”であるということ。

「ったく、なんでおれまでこんなことしなくちゃならねぇんだっ……ての!」

 今頃町中は大騒ぎだろうな、などと思いあぐねながら、リツは手にしたハタキを左右に振り振り、貸本屋内を何度も往復していた。
 書籍たちの体調を慮り、落ち着いた薄暗さを保った店内には、せめてもの明るさをと設えた金細工の梁。
 心地よい眠りを誘うダークグリーンのビロードソファには、小さなランプシェードが取りつけられており、オレンジ色のあたたかな炎が灯っている。
 膨大な参考書リストの、その最後の一行をランプの光にかざしていると、こ、こつ、とやけに弱々しいノック音の後に、意味もなくひそめられた小声が続いた。

「リーツー」
「……」

 神秘的な青と紫のステンドグラスの向こうには、やはり見慣れた人物の影絵が映っていたのだけれど、リツはあえてその言動を無視した。午前中いっぱいをかけて、積もりに積もった無限のいらだちを、今この瞬間まで持ちこしてぶつけてみせるのだ。
 そんなことを考えていたら、うっかり開けっ放しのキャビネットに膝をぶつけてしまった。
 待っていましたと言わんばかりの速さで、栄一が声を上げる。子どものころに戻ったかのような、無邪気な笑い声がくすくすと挟まっていた。

「りーっちゃん。あーけーてー」
「いーやーだ!」

 言ったが最後、今度は風を切って駆け寄った指先が、硬質な音を立てて鍵をかけてしまう。
 ぽかん、と立ち尽くす栄一の輪郭が、いつになく間抜けな風体でおかしかった。

「嘘。……え? ちょっと待って待って本気で開けて! 重たいんだすっごく重たいんだこれ。今にも肩がぬけ落ちそうなんだってば!」

 がちゃり、と観念したように施錠を解いたリツは、じっとりと血走った目で栄一をにらみ上げた。

「……そういうものは自分の部屋にもってけよ。だいたいあっちがてめぇの作業場だろ?」
「いや、だってこのまま二階まで上がるの面倒くさいんだもん」
「ざけんな締め出すぞ」
「ちょっとだけ置かせてくれるだけでいいから。っていうか、むしろ置かせて下さいお願いします」
「よく言えましたー」

 ようやく扉を全開まで開け放ってやると、なるほど確かに、栄一はほとんど紙袋に埋もれるような形でのこのこ歩いて来た。
 町の若い娘たちは、見慣れぬ彼の姿を見て一体どう思ったのだろう。案外、うまい具合に心優しい貴婦人でもつかまえて、馬車で送ってもらったとかそういうオチだろうか。

「どっこらせと。あー重かったー」

 大広間にありったけの荷物を積み上げた栄一は、額の汗をふいて清々しい笑みを浮かべた。
 本当に、外面と内面が百八十度も二百度も違う男である。

「こんなにたくさん、一体何をかっさらってきたんだよ」

 うんざりした顔でリツが問いかけると、栄一はよくぞ聞いてくれました、と言わんばかりの表情で、心底嬉しそうにこちらを見返して来た。
 堪らず「うぜぇ……」と漏らしたリツを受け流して、栄一はさっそく手身近な袋を開封する。中庭ごしの日光が反射して、取り出された品物は真新しく輝いて見えた。

「これが、グランターニュ地方で取れる上質の羊皮紙。あちらでは今グリーンが流行らしいから、繊維にツバキの葉を混ぜてもらったんだ」
「よく間に合ったな」
「さりげなくごり押ししといた」
「……そっちは?」

 突っ込みをあきらめて反対側の小袋を指させば、栄一は笑ってヘイゼル色の小瓶を取りだした。薄く影を落とすこめかみに近づけて、軽く振る。

「これは、香り付けに使おうと思って」
「香り付け?」
「ターメリック国の伝統料理に昔から使われてる香辛料。王子さまの好物だって聞いたから。……かいでみる?」

 ふたを開けて目前まで近づけられれば、自然と鼻先はふんふんと動いた。
 最初は甘いヴァニラのよう、しかしその後つんと鼻を通り抜ける、独特の刺激に驚かされる。おそらくかなり高価なものだ。

「こんなものまで……おいおい、完全に依頼金の範囲超えてんじゃねーか。赤字だぞ?」
「予算は越えてこその趣味だろ」
「嘘だな」

 いつになくきっぱりと言い切ったリツに、栄一の手先がぴたりと止まった。
 訝しげな幼馴染の眼差しを受けた瞬間、今まであてずっぽうに考えていた乱雑な思考が、一気に口をついてあふれだしてくる。

「おまえ、嫌気がさしてんだろ。上のやつらにへこへこして、決まりきった仕事しかしない、印刷屋を継ぐことが。だから今のうちに、自分にしかできない代筆屋なんて仕事をして、皆にちやほやされて勝手に自己満足してんだ。――違うか?」
「……相変わらず容赦ないなぁ、リツは」

 栄一は低く薄い声で微笑した。何の感情も含まれていない声と、何の起伏も感じられないたおやかな眼差しだった。なんとなく胸の内がざらついて、リツは栄一の顔から視線をそらしてしまう。
 ぼんやりと手元に視線を落としていた栄一もまた、沈黙を守ったまま黙々と片付けをはじめた。おそらく、買い求めた品をいくつかに分けて、自室へ運びこむつもりなのだろう。
 そうはさせるか、とリツはとっさに食い下がった。まだ、おまえに確認していない大切なことがひとつだけ残ってる。

「それにしても、すんげー美人だったな」
「え?」
「あの、トリっていう子さ」

 ぴくり、と手元が跳ねたその拍子、片付けようとしていた小瓶がかたんと倒れた。
 それはひどくささやかな、それでいて確かに栄一の胸の内を代弁した音でもあった。
 窓の向こうのミモザのすぐ下で、ミツバチの羽音が一斉に鳴り響く。
 栄一はゆっくりと上体を起こし、こきざみに震える右手を丁寧に支えた。

「――そうかな」

 己の動揺を伝えまいと、必死に絞られたその声は、まるで自らが作り上げた壁の脆さを、泣きながら嘲笑っているかのよう。

「僕は、そこまでとは思わなかったけれど」

 途端、リツは弾けたように笑いだした。キャビネットの縁に額を擦りつけ、乾いた声で延々と笑い続けた。
 珍しく苛立たしげな表情で、栄一がこちらを振り返る。涼しげに整ったまなじりが、繊細な険をおびてひそめられていた。

「なんだよ」
「だって、栄一おまっ、まじ。わっかりやすっ!」
「だから、何が!」
「おまえ、全然気のない子にはいくらでも可愛い可愛い言えるくせに、ホントに好きな子には、絶対可愛いって言えないクチだろ!」

 めんどくさっ、と吐き捨てて、もう一度大爆笑をするリツの耳に、うるさい、と叫ぶ栄一の声が割りこんだ。うるさい、笑うなよ、と、そこまではまだ張りがあったものの、笑うな、と二度目に言った声にはすでにほとんど力がなく、そのままずるずると机の上に突っ伏してしまった。

「……なんでばれてるのかなぁ、リツには」
「何年隣の家に住んでると思ってんだ、このどあほ」

 そう告げて、振り返りざまに笑ってみせようとしたが、それは出来なかった。栄一の白い顔の上から、どんどん覇気という覇気が消えてゆくのだ。
 さすがのリツも、これには異様な焦燥感にかられてしまった。大丈夫か、と遠慮がちに尋ねかけたリツに対して、大丈夫、と彼は繰り返す。

「……僕は絶対、本気になんかしない」

 本気になんかしないよ、僕は。
 噛み締めるように重ねた声は、いつものごとくまるで静かなものであったけれど、あんなふうに生気のない顔で告げられて、一体どこの誰がその言葉を信じられるだろう。

 じんじんとした指先の痛みに気がついて、リツは咄嗟に右手の薬指に目線を流す。
 真新しい羊皮紙によって作られたその傷は、これからはじまる淀んだ夢を表しているかのようだった。






 

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