Scene7

message for you-7


 小高い丘の上だった。
 凪ぎかけた草原の中心に一本の木が生えていて、その真横を通りすぎるふたつの人影が目立つ。
 吹きぬけるそよ風が一面を揺らせば、咲きほこる満天の花々が一斉に歌いはじめた。何かを守護し、見守ろうとするかのような、言葉に言い表せない感情に満ちあふれている。
 まるで、あらゆる慈しみや時間を閉じこめて、一枚の絵画に仕立て上げたような空間。

「時々、小さな後悔を抱くんです。あのときわたしは、ライム川の橋を渡らなければ良かったんじゃないかって」

 まだらに遮られた木漏れ日を浴びながら、彼女はどこか眠たげに瞬きをした。
 少女の視線の先では、赤と橙の小花が揺れている。雲間から降り注ぐ光の雨が、草木を明るく照らしていた。

「その日、わたしは時計に埋めこむ宝石を求めに、ユフさんのお店へ向かっていました。わたしのような小さいお店には珍しい、オーダーメイドの注文が入っていたからです。詳しい事情はお話しできませんが、とても良い家のお嬢さんがお求めになるものだから、最高級の宝石をつけてお送りしましょうって、両親もわたしも張り切っていました。――思えばそのときの浮ついた気持ちが、すべての元凶だったのかもしれません」

 まるであらゆる後悔や恨み言を閉じこめるように、少女は唇に力をこめた。どこからか浮かんできた綿毛の束が、薄く垂れた彼女の横髪に吸いついて留まる。

「宝石を求めて帰る途中で、わたしは強盗に襲われました。お店を出てから実家へ戻るまで、ずっとわたしのあとをつけていたようです。本当はとてもこわかったけれど、大変な額のお金を支払って買った素材ですもの、わたしも必死の思いで抵抗しました。けれど、慣れないことをしようと思いついた、わたしの浅はかさが間違いでした。相手の手を振り払おうと身をよじったそのとき、腕の中に大切に抱えていた宝石箱がするりと落ちて、そして――」

 ざぁ、と唐突に勢いを増した風の音が、やわく溶かされた耳元をつんざいた。

「……宝石は、ライム川の橋の硬い石柱にあたって、粉々に砕け散ってしまいました」
「――」

 トリは自らの小さな膝を抱き寄せると、ゆっくりと顔をうずめて沈黙してしまった。
 かけるべき言葉が見つからず、栄一は彼女の髪から離れてゆく綿毛を、途方にくれたように見送るしかない。
 もしも万が一、強盗に宝石を盗まれただけで終わっていたならば、彼女はすぐさま交番へと向かって、犯人の特徴をこと細かに伝えていただろう。しかし、自らの手で宝石を壊したその瞬間から、彼女は同情を受ける資格をなくしてしまったのだ。

「強盗たちがいまいましそうに舌打ちをして、その場を離れたあとも、わたしの足はがくがくと震えてしまって、とうてい立つことなんてできなくなっていました。どうしよう、どうしようって、そればっかりが頭の中に浮かんで。歩きすぎる人の視線すらも、まったく見えなくなっていたんです」

 少し風が強くなってきたようだ。彼女のかぶっている鍔広帽が、時折ふわりと浮き上がり、苦笑して片手で押さえる様子がしばしば見受けられた。

「そのとき、ひとりの男の人――たぶん、わたしと同じか少し下くらいだったと思うんですけど、そんな見たこともないような男の子が、突然わたしの目の前に立ったんです。そのひとがまじまじとわたしの顔をのぞきこむまで、わたしは自分が泣いていることにすらも気づきませんでした。しばらくすると、その人はわたしにはよくわからない異国の言葉で、二、三言くらい話しかけてくれて。よくわからないです、って慌てて首を振ってみせたら、突然重たい包みをわたしの手に握らせて、その場から立ち去ってしまったんです。ぼろぼろに崩れ去ってしまった、宝石のかけらを全部拾い上げて。……ようやく落ち着いたころに、もらった包みをあけてみたら、宝石を買った額と同じか、それよりもずっと高価なお金が入っていました」
「――それって、もしかして」
「はい」

 人形のようにこわばっていた彼女の横顔が、まるで菫のつぼみのようにほころんでゆく。

「たぶん、あんなにぼろぼろになってしまった宝石を、買いとって下さったんだと思います」

 息がつまるほど眩しくきらめく、緑の木々がさざめいた。あたかも相槌を打てない栄一に、とってかわってくれたかのようだ。

 桜色になびく彼女の、幸福そうな表情は何よりも美しい。そよ風の音色も、太陽のまなざしも、すべてが彼女を飾り立てるための霞となってしまうくらいに。
 けれども違う、これは恋心などではないのだ。そう、栄一は無理矢理にでも思いこもうとした。
 そうだ、あろうことか一番最初に、彼女の泣き顔を見てしまったからいけないのだ。だから、もうこれ以上傷つけたくないと思って、むやみやたらに緊張してしまうんだ。それだけの話だ。……きっと、そうに決まってる。

「あの方の身分とか、そういうものは何ひとつとして関係なかったんです。ただ、呆然としたまま一言も返すことができなかった、あのときの自分があまりにも情けなくて、悔しくて。もう一度会って、直接お礼を言うことができたなら、どんなにかいいだろうって、そう思いました。そんなことを考えていたら、あの方の真剣な表情だとか、包みを握らせてくれたときのやさしい手つきだとか、そういうものひとつひとつが、急にはっきりとした重さで思いだされるようになって」

 その瞬間、可憐な彼女の頬の上には、律儀さとか真面目さとか、そういうものをはるかに超えた、薄紅色の感情が色づいたことに、栄一は気がついた。
 少女が奏でようとした純粋な感謝の調べは、まるで川を下るような勢いで一気に憧れへと変わってゆく。

「……眠れない夜が続きました。あの方に偶然出会って、あの日はありがとうございましたって、いとも簡単に告げることができる自分を思い浮かべては、そんなこと出来るはずない、って叱りつける自分が現れて、すべてを打ち消して去っていきました。どうすればいいのかわからなくて、それでも会いたくて会いたくてたまらなくて。途方にくれて一人で泣いていたら、気づいたときにはあの貸本屋にいたんです」

 意識を集中させるように息を吸いこみ、栄一は凄まじい勢いでペンを走らせた。
 頭の中を破裂させんとする勢いで、色鮮やかな歌の波がどっと押し寄せてくる。その一滴一滴を手作業ですくいあげ、無作為にかつ整然と並べてゆけば、羊皮紙いっぱいを埋め尽くす旋律が幕を開ける。
 逃してはいけない、どんな些細な言葉も感情も。彼女の苦しみと喜びのすべてを詰めこんで、歌にする。歌にしてみせる。





 

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