Scene8

message for you-8


「――いちさん、栄一さん?」

 ふはっ、と止まっていた肺の中の空気を解き放てば、見るからに不安そうにこちらを覗きこむ、フランス人形の姿が見えた。
 ゆらゆらと浮遊していた意識のしっぽを、放浪の途中でかろうじてつかみ取る。

「――はい?」
「あの、だ、大丈夫ですか? 先ほどからお声が届かなくなってしまったから、どうしたのかと思ってしまって」

 一拍、二拍の間をおいて、ようやく目の前にたたずむその人形が、夢の中に溶けていた少女なのだと知る。
 もう一拍、二拍を数えて、やっとのことで呼吸ができるようになる。
 現実からかけ離れた、異質な言葉のみが飛び交う世界に目を閉じて、あらゆる色素を変換してから、慎重に口を開く。

「ああ、うん。ごめん。さっき聞いた翔歌さんのお話をまとめてたら、手紙に挿入する歌の草案ができたんだ」
「も、もうですか!?」

 すごい、と感極まったように合わせられた手のひらは、幼子のようにあどけなく華奢だった。
 白くて細くて、わたのように軽い無邪気なそれ。

「やっぱり栄一さんって、すごいお方だったんですね! ネネちゃんも、お友達のルナちゃんも、マコちゃんも。みんなが栄一さんのこと、すごくすごく頼りにしてるんですよ。何度もうわさに聞いていました。わたし、本当は栄一さんのこと、ずっとずっと前から知っていたんです」

 眩しい笑顔を間近に受け止めることができず、栄一はついつい視線をそらしてしまう。
 雨ざらしになってはげたベンチの向こうには、草木がみしみしとゆがみながら生えて、でこぼことくねる一本道が続いていた。その先に続く果てのない距離は、にわかに栄一の背筋をぞっとさせる。
 真昼の白みをしこたま受けて、一面は幻想的な悪夢のように、浮かび上がった。

「……かと思って」
「え」

 沈黙を、そのまま野放しにしておけばよかった。
 後から考えれば、いくらでもそんな言い訳は思いつくのに、その時の栄一は、零れる言葉をそれ以上留めてはおけなかったのだ。

「この仕事。やめようかと思って」

 不意に、栄一が困ったように首を傾げて呟いた。
 ぽかんと静止するトリの姿を見て、ゆるやかに笑みを抑えた彼は、真正面に向きなおりながらもう一度、唇を爪弾く。

「……わかってしまうんだ。家のこととか、先のこととかに気をとられて、だんだん人々の気持ちに寄り添えなくなってしまっている。研ぎ澄ませていた感性が鈍く錆びついて、誰かの気持ちを滑らかな歌にすることが、できなくなってしまってる。みんなの気持ちには応えたい、喜んでいる人の顔を見るのも、頼りにしてもらえるのもすごく嬉しいんだ。ほんとだよ。でも、耐えられない。どんどん朽ちていくいっぽうの自分の歌を、信頼してくれた人たちに届けることが。……いや、そうじゃないな。それを手渡して、結果が得られなくて、がっかりされてしまうことが、僕はきっとこわいんだよ」

 きっと。きっとね。
 できるだけ冷たく投げやりに、と気をつけたつもりのその声は、こんなときでもいやになるほど静かで、穏やかなものになってしまった。
 それが口惜しくなってまぶたを閉じると、眠たげなそよ風が前髪を揺らして散ってゆく。
 消えた矛先を認めようと、ゆるく開いた眼差しの先には、驚いたことに彼女の唇があった。朝露に濡れた薔薇の蕾のような、うつろいの色。

「――いじゃないですか」

 音もなく見つめ返されたトリは、きゅっと唇を締めてまばたく。
 凛とした想いをこめた瞳はしかし、春の星のきらめきのようにどうしても、はかない。

「錆びついてたって、いいじゃないですか。どんなに細くて小さくて、針で刺した穴からさす光のような歌でも、歌い続けていけばいつかきっと、きっとつながっていくものがあります。だって、みんなが求めているのは、他のだれでもない、栄一さんの歌なんだから」

 握りしめられた羽毛のようなにぎりこぶしが、ふるえている。
 せき止められた彼女の中の血流が、その色を桃の華に染める瞬間まで、栄一は彼女の手の甲から目が離せなくなってしまった。……まるで、今にもその手をとって口づけてしまいそうなほどに。

 どうして、よりにもよってきみが、そんなことばを口にするんだろう。
 きみは、文字が書けない。自分の想いがじょうずに伝えられない、だから僕のところにやってきた。きみの想いをうまく伝えてもらうためだけに。そうであった、はずだった。
 だったら、きみは最初から最後まできみの想いを、口になんて出してしまわなければいい。
 よりにもよって、そんなにも綺麗なきみのことばを、どうして僕なんかに届けてしまうんだ。
 ――たいして大切なんかでもない、特別でもない、何のへんてつもない、この僕なんかに。

 すい、と動いた指先は、トリの前髪にだけ触れて離れて行った。
 爪が、すこしだけ伸びていることに後から気がつく。
 ……気がついたときには、もう何もかもが遅かったのだけれど。

「栄一、さん?」
「……あ、」

 栄一はそのとき、とうとうかの麗しい人形に触れてしまったのだ、ということを悟った。
 身体中に残っていたわずかな熱が、すべて心臓の一点に集まったかのように燃え上がる。熱のせいで全身の歯車どうしがくっついて、ぎしぎしと軋んだ音を立てて止まって、あやうく死んでしまうかと思うほどに。熱くて熱くて、たまらない。
 涙は出なかった。声だって震えなかったつもりだ。
 それでも、明るく照らしだす木漏れ日の温度が、痛いほどに彼の目を焦がしていた。

「……。ううん、ごめん。なんでもない、ありがとう。今の言葉――すごく、嬉しかった」

 一言一言をぽたぽたと落とした栄一の前で、天使の笑顔がぱぁんと、弾ける。

「――! はいっ」

 その、何よりも眩しいはずの少女の笑顔を、栄一はひどく遠い場所から、ぼんやりとした脳で眺めていた。
 ほら、まただ。
 よりにもよって、たったひとりのきみが、そんな顔で笑うから。

――僕の恋はまたしても、幸福と絶望の縁に追いやられるのだ。





 

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