Scene9

message for you-9


「――言ったのは、リツだよね」
「あ?」

 ベッドの上にぼすんと溺れたまま、身じろぎひとつしなかった屍が、一番最初にとき放った言葉がそれだった。
 あ、生きてたんだ。なんて適当なことをつぶやいて、軽々しい調子でチューニングをおこなう。
 彼の重低音をカバーするためには、音割れなんてもってのほか、できるだけ小さくて控えめで、たんたんと響く声がちょうどよい。

「おれが、なに?」
「……面倒くさいことの裏側には、甘いものが必要だって。それによってバランスをとって、みんな仕事をこなしてるんだって」
「……んなこと、おれはひとっことも言ってねーけどな」

 あーん、と口を開くように促せば、死体はごろんと転がって顔をのぞかせた。
 桃色の可愛らしいチョコレートを仰いだ後に、形の整った眉をしかめて首をふる。そのまま澱んだ黒真珠を閉じこめて、ゆっくりとまぶたを降ろしてしまった。

「うそだよ、あれ」

 閉ざしたまぶたに腕を重ねて、青年はすねたように唇を尖らせる。

「……あんなの嘘だ」
「……」
「甘いものがあると、ものごとがよけいに面倒くさくなる。わざわざ大切なものふたつをつかみ出して、はかりにかけて、どっちかひとつを選ばなくっちゃいけなくなる」
「……」

 行き場を見失い、手持ち無沙汰になっていたチョコレートを、リツはぽいっと自分の口の中に含んでみた。
 何度か舌の上で転がしたあと、うん、甘くておいしいね、などと栄一の声音をまねしてつぶやいてみる。
 明確な言葉を返さないリツの反応に、とうとうしびれを切らしたのだろう。くい、とすがるようにベストの裾を引っ張る、ひとまわりもふたまわりも幼い手が現れた。

「リツ」
「……」
「リツぅー」
「うっせ。甘ったれた声だすな」

 ぺし、と折れ曲がった肘に平手をお見舞いしてやると、栄一の腕はぱたりと抵抗を失った。あっけないものだ、とリツは溜め息を吐く。

「ひっでぇカッコわりぃぞ、今のおまえ」
「僕がカッコよかったことなんて、今まで一度でもあった?」

 腕の下からちらりとのぞく、端正な横顔がぽつりとぼやいた。

「僕はカッコよくなんてなれないよ。……この先、一生かけたって。無理だもん、そんなの」

 だもん、とか言うなよ。よけいカッコわりぃだろ、とか遠慮のない口調で小突いてやれば、栄一はとうとう反対側の壁を向いて、身体を丸めて眠ってしまった。
 みのむしみたいだ、なんて思う。


 “あのとき”こいつは、なんて言っただろうか。
 栄一の言う、甘いものについて考えたとき、リツは決まって“あのとき”――はじめて『少女』になった日のことを思い出す。
 とんとん、と坂を降りてくるその足音が、栄一のものだと悟るまでに、さして時間はかからなかった。
 彼は他の子どもたちとは違う、底の柔らかい靴をはいていたから。おつかいを頼まれたとき、職人たちの集中力をさまたげないよう、よけいな物音を立てないものを自分の力で選んだらしい。
 そんな、普通の子どもたちとは少しちがう、大人びた思想を持つ少年でさえ、川のへりに這いつくばるようにして、声を殺して泣いているリツのことを、はじめはだれなのだかわからなかったらしい。
 ひょこりと下から顔をのぞきこんで、その嗚咽が見知った幼馴染のものだと知ると、驚くでもなく、訝しむでもなく、ただただ不思議そうにきょとんとまばたきをした。
 むき出しの小さな、白くて骨格の細いひざこぞうの上に、どこか上品そうに手をおいて、まじまじとこちらを見つめている。

 泣いてるの、と聞きたげな体温だった。けれど声は出さなかった。
 本当に相手のことを思いやっているとき、あえて言葉に出さないふしのある少年だった。
 リツは首をふった。泣いてない、とも、ほっとけ、とも取れる動きをあえて選んだ。
 別に聞かれたわけではないのだけれど、なんとなく何かしらの行動は起こさなければ、彼を追い払うことは出来ないような気がした。
 栄一が「ふ、」と鼻から小さく息を吐いた。一見ため息のようなそれは、実は淡い水色の微笑みだった。
 膝小僧の上から手を離した少年が、鈴のように動きだす。
 リツの上に重ねた影をどかして、反対側にしゃがみこむ。薄い膜を張った草むらを軽くなでて、一番最初に引っかかった茎をふつりと手折る。
 風とともに目の前がもう一度翳って、リツはようやくあきらめとともに顔を上げた。

 現れたのは、湯から上げたばかりの絹のような白さだった。
 あっけにとられたリツの頬のすぐ近く、まっすぐに垂れる赤毛の一本をそっとたどって、幼い指先が頭の横に触れる。
 細い繊維に引っかかって、何か重たいものがカクン、とぶら下がった。
 バランスを崩して首をかしげたリツの前。
 まるくて大きな目をふわり、と細めて、少年はつぶやく。

――かわいいね。

「この花をつければ、だけど」

 にっこりと満面の笑みを浮かべて、その一言さえ付け加えなければ、リツはあやうく目の前の少年に心を奪われてしまうところだった。それくらいまでに、彼は聡明で繊細な笑みを浮かべていたのだ。
 その後、顔に朱を上がらせて、少年の顎に強烈な一撃を食らわせたリツは、家に帰ってからも収まらぬ怒りと情けなさで、ごろごろとリビングルームの上を転がっていた。

 リツと栄一が見せかけの恋人どうしになったのも、まさにこの周辺のできごとである。

「だって、僕みたいなのと恋人になっとけば、まさか誰もリツが男の子だなんて思わないでしょう?」

 はたから見れば随分な言い草だが、それには圧倒的な説得力があった。
 天才的な頭脳と、端正なルックスを持った少年の恋人が、まさか男だなんていったいどこの誰が信じようか。
 そう。少年よりも四歳年下だったリツのひみつは、少年のくれた白い花によって、巧妙にそして確実に守られてきたのだ。

――でも、それだけじゃなかった。

 今からして思えば、リツはただ単に利用されただけにすぎない。

――あいつがおれを恋人として偽ったのは、“あいつ自身が”恋をするわけにはいかなかったから。

 歌を謳うと決めたその日から、栄一は“たったひとりの誰か”のための存在ではなくなった。
 “たったひとりの誰か”に対して、甘く切ない想いを抱く。その資格を自ら手放すことで、彼は言葉の世界への鍵を手に入れたのだ。




 

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