EpisodeⅦ-1

歪む風


 その日、ユフがレンの部屋を訪ねてみると、彼は一枚の写真を食い入るように見つめていた。
 小さな眉間にはくっきりと皺が寄り、喉の奥からはかすかな唸り声が漏れだしている。

「どうかしたの?」

 ことり、とカステラ用の小皿を置きながら、ユフがほやほやと声をかけた。
 彼が熱心に眺めているのは、今朝の新聞に印字された白黒の写真である。
 おそらく果物売場の店先なのであろう、大小様々な果物の山が、籠の中で申し訳がなさそうに縮こまっていた。

「……いや。ここの部分がちょっと」
「ん?」
「気になって」

 未だ考えを巡らせているのか、レンは心ここにあらずといった様子で、写真の中の一カ所を指し示す。
 紅茶を用意する手を押し止めて、ユフはさらに声を高めた。

「これ? ……あら。わたしにはただの値札に見えるのだけれど、それにしてもすてきな紙ね。和紙かしら? あ、よく見たら字もきれいだし」
「どこ見て何言ってんだよ、あんたは。俺が気になってるのは、むしろこの数字の方」
「数字?」

 トレイを抱えたまま小首を傾げると、レンは新聞を折り畳みながらすらすらと告げる。

「このところ、物価の上昇の仕方が異常にもほどがある。観光業だけとか、水産業だけが売上低迷、ってことはよくあるんだけど、今回はそういう単純な問題に限らないんだ。全部の値段が上がってるから、たぶんこれから消費者の購買意欲も下がってく」
「え、そうするとどうなるの?」
「負の連鎖だよ」

 もはや年下の子供とは思えない様相で、レンは重々しく断言した。
 自分が実際に政治を動かしているわけではないというのに、その表情は苦渋に歪んでいる。

「……」

 ユフはそんな彼の指先を、息をひそめながらじっと見つめていた。
 しかし、ややあってきゅっと唇を引き結ぶと、つかつかと歩みを寄せて威勢よく叫ぶ。

「町に行きましょう、レンくん!」
「――あ?」

 毎度のことながら唐突なタイミングで、ユフがレンの両肩をがっしりとつかんだ。
 こういうときのユフは、その華奢な身体のどこにそんな力があるんだ、と言いたくなるほどの握力を発揮する。

「そうやって新聞とにらめっこをしていても、何も始まらないじゃない。本当に気になることは、自分の目で見て確かめるのが一番だって、ルコ姉さんも言ってたわ」
「あのさ、あんたはそれでいいかもしれないけど、おれは……」
「何? 何か心配なことでもあるの? ――あ、もしかしてあんまり外にでたことがないから、道がわからないとかそういう……!」
「はっ? 何をまたそんな勝手なことを! 違ぇよ!」

 しかし、残念ながらレンの不満は、ユフの耳まで届かなかったらしい。
 彼女は自信たっぷりに胸をそらすと、両手を叩いて朗らかに宣言した。

「大丈夫っ! 道案内ならわたしに任せて! お城の周辺のことは少しだけ不安だけれど、中心街でのお買い物なら、よくテトやルコ姉さんといっしょに行っていたもの!」

 そうしてまともな返事も聞かないまま、ユフはうきうきと準備に取りかかり始める。
 そんな彼女の後ろ姿を見て、レンはしばしの間迷うように立ちすくんでいたが、やがて何かを決心したように頷いた。

「……そうだよな。確かに、こんなとこでぐずぐずしてるわけにはいかないか……」

 苦笑交じりにこちらへ歩いてきたレンは、外套をまとったユフの手をぎこちなく掬う。

「……行こう」
「! うんっ」

 触れたぬくもりがいつになくやさしくて、ユフはにっこりと彼の手のひらを握り返した。
 ずっと屋敷の中に閉じこめられていたユフは、久々に外に出られるのだと知り、まるで幼子のようにはしゃいでいたのだ。
 ……しかし、彼女の無邪気な笑顔を捉えたレンは、うつむかせたまつ毛の先をわずかに震わせていたのだった。



 

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