これまでの常識を掘り起こして覆す、あたかもショベルカーみたいな出来事が襲いかかって来る日は、概して何の変哲もない朝から始まる。
その日の朝、俺――松田爽太は、黄色いプラスチックのごみ袋を、所定のごみ捨て場までカラカラと運びながら家を出た。
鍵を締めたらカバンからi-podを取り出し、絡まったイヤーフォンをほどきながら、右肩だけで門を開閉する。
カナルをしっかりとはめてから、インスト系のプレイリストをランダム再生。
手帳ひとつを片手に悠々と闊歩するおっさんを、下りの坂道でここぞとばかりに追い越し、満員電車を3本乗り継いで薄汚れたコンクリートの四角柱へ。
社員証をカードリーダに通したら、3階下のフロアへ降りて会議室の扉をノックする。
ついこの間、お世話になることに決まったばかりの、入社3年目の先輩に挨拶をするためだ。
「失礼します」
「おー。松田くん」
へらっ、と笑った背の低い――いや、童顔の――いや、俺よりもずっとずっと若く見えるこの女性は、春歌ナナ先輩。俺よりも3歳も年上だ。
建前上はいちおう就業時間前だから、ぎりぎりまで食べ損ねた朝食を摂っておこうという魂胆だろうか。
ウィダーインゼリーのパックを咥えたまま、片手を上げて俺に応じてくる姿は、どんなに角度を変えて覗きこんでも原宿の女子高生にしか見えない。
「おはようございます。これ、昨日の午前中までにメールで来てた分を、エクセルファイルでまとめた資料です」
「へぇぇー、もう終わったの? 今週末まででいいって言ったのにー」
「やれるうちにやっておこうと思いまして……いちおう、日付ごとにsheetで分けたものと、全体を集計したものの両方を作っときました」
「ほほう、なるほどね。よくできてんじゃん」
「ありがとうございます」
頂戴したお褒めの言葉に、素直にぺこりと頭を下げれば、空のパックをぽいっと投げ捨てて、春歌先輩はにこっと視線を寄越した。
5月の若葉に、ペリドットのかけらをすこし混ぜたような、俺にはやや明るすぎる瞳。
それが珍しく俺のことをじっと見つめてくるものだから、俺は何かしでかしたんだろうか、と呑気なことを考えていたものだった。
「……あの。先輩?」
「松田くん、あのね」
実はさぁ、と間延びした調子で言いながら、向かい側の椅子をひらりと指し示す。
赤いネイルに誘われるように、慎重な足取りで腰を下ろせば、先輩は悩み顔を隠すようにうつむいた。
その拍子、すべり落ちた後ろ髪にはっと目を留め、ひとふさの枝毛を発見してから眉をしかめる。反射的に伸ばしそうになった手を慌てて引っこめ、改めて俺のことを真剣に見つめ直してきた。
なんだか知らないが、この微妙な間合いの取り方から察するに、言いにくいことなのだろうか。自然と俺の口内にも苦い唾が溜まる。
「……ホントはね、きみをこの部署に呼んだときから、満場一致で決まってたことなんだけど」
え、まてまてまてまてちょっと待て。
なにこれ、えっとこれはつまり何フラグ?
左遷? 窓際族? リストラ? ニート?
ありとあらゆる無限の可能性が、一瞬で頭の中を過ぎった刹那。
彼女の口から飛び出した言葉は、何事からも途方もなくかけ離れていて、かつ、何事ともひどく似通っているという、それこそある意味では、無限の可能性を秘めた言葉だった。
「きみには、透明人間になってもらおうと思って」