「――っ!」
そのとき、突然ユフが壁に手をついて走りだした。
「お、おいっ! 今出ていったら……!」
当然ながら、レンはすかさず彼女のことを止めようとする。
しかし、ユフがいつになく気迫に満ちた目をしていたので、知らず知らずのうちに口をつぐみ、結局は後を追う形となってしまった。
にぎわう雑踏の波からはぐれ、忘れ去られたように傷ついた小さな花。
そのすぐそばにしゃがみ込んだユフは、折れた茎に従って震える指先を添えた。
「……。ひどいわ……」
か細く消え入りそうな声とともに、ユフは涙をにじませる。
「今の人たちは何? どうしてレンくんがあんな風に追われなくちゃいけないの?」
途方に暮れたようなユフの問いかけに、レンは鼻で笑って膝を折った。
いつものぴりぴりとした声とは別人のように、やさしく穏やかな口調で答える。
「あいつらは最近現れた革命軍だ。ヴォイツァ家への反逆をもくろんでるって噂が流れてる。おれが目を付けられてるのは、そりゃ、親が悪政で有名だからな」
「だって、それにしたっておかしいわ。レンくんはなにも悪いことなんてしてないのに」
レンは薄く微笑するだけで、それには何も応えなかった。
代わりに立て膝の上に頬杖をつくと、悲しげな色を湛えて自嘲する。
「……本当はわかってるんだ。おれたちの時代は、もうすぐ終わるんだって。おれたちは、もうこの町の誰にも必要とされてなんかないんだって」
「でも、わたしにはレンくんが必要だわ」
いつになくきっぱりと言い切ったユフは、くるりと彼の顔を降り仰いだ。
「ねぇ、今までわたしたちが生きてこれたのは、レンくんのお父様たちが、経済の仕組みとか、悪い人を裁く法律とか、たくさんのことを考えてくれたからでしょう。だったら、こんなところであきらめたりしちゃだめよ。だって悔しいじゃない、これまでずっと積み重ねてきたことを、簡単に投げ出してしまうなんて」
「――ユフ」
ぽつり、と。まるで呼ばずにはいられなかったかのように、レンが初めてユフの名前を口にした。
そんな彼のことを眩しげに見つめ、ユフが包みこむような眼差しを細める。
「……失ったものはもとに戻るのよ。信じてさえいれば、いつかきっと」
そうしておもむろに、ユフが広げた手のひらを花の上にかざした。
一体何をしているのだろう、といぶかしんでいたレンは、唐突に訪れた変化にぎょっと目を見開く。
まるで、鈍色の空から一筋の光が射しこんだかのように、その花の周りがぽうっと明るく燈り始めたのだ。
すると、真っ二つに曲がっていた野花の茎が、銀色の光を放ちながらむっくりと起き上がる。
足下に散らばっていた七枚の草葉は、泥を弾きながら茎の周りへと集ってゆく。
ちぎれて散乱していた花びらは、鮮やかな色を取り戻して、ひたひたと管状花に吸いついた。
そうして気がついたときには、命を手折られたはずの小さな野花が、すっかり元通りになってしまっていたのだ。
「――どういう……ことだ?」
呆然とした表情で、レンがポツリとつぶやいた。
救いを求めるようにユフを見やれば、彼女はいつもと同じ緊張感のない顔で飄々と答える。
「あれ? 今のたとえわかりづらかったかな? うーんと……だからね、こうやって一度はぼろぼろになっちゃった花も、いろいろとがんばればこの通り元に……」
「んなことはいいッ! その力は、一体どこで身につけたんだ!?」
がっしりとユフの両肩をつかみ、レンは半ば噛みつくような勢いで問いつめた。
その瞳は不安と戸惑いのためか、炎のように烈しく揺らめいている。
あまりに必死なその様相に、ユフはおろおろと視線をさまよわせた。
「え……え? い、いつってそんなこと、なんで聞くの?」
「いいから答えろ!」
「え、ご、ごごごめんなさい! わからないわ。だって……だって、小さいころからずっとこうしてきたんだもの!」
レンは大きな碧眼を見開き、そうしてようやく何かに思い当たったように、拳を思いきり地面へ叩きつけた。
「ちくしょう、そういうことか……っ!」
「え、なになに、そういうことってなに? っていうか、レンくんもしかして怒ってる?」
「怒ってねぇよ!」
「わぁあ。どうしよう。やっぱり怒ってるのね……ううぅ」
しゅん、と勝手にうなだれてしまったユフを見て、レンは盛大な溜め息を吐いた。
「……そうじゃないって言ってるだろ。要はあんたのその力が、オヤジの目に触れたんじゃないかって、そう思っただけだ」
「え、これが目にふれるとどうなるの?」
「だからつまり、もし仮に命の危険にさらされたとしても、あんたを側においておけば、命を永らえることが出来るかもしれないだろ」
その言葉を聞いたユフは、しばしの間ぽかんと口を開けて固まっていたが、ややあって絞りだすような声でつぶやいた。
「そ、そっか……レンくん、頭いいね……」
「いや、今のは明らかにあんたが阿呆なだけだろ」
「どうしよう……そんなこと一度も考えたことなかった……」
柄にもなく動揺をしているのだろうか、ユフは自分の肩を抱きしめたまま、しょんぼりとうつむいてしまっている。
その、情けなく震える背中を見つめていると、逆にレンの方が落ち着きを取り戻してしまった。
座りこんだまま動けずにいるユフを見かね、レンはさっと立ち上がって手を伸べる。
「心配するな。今のところは、あいつも何かをする気はないみたいだし。それに、もしも万が一あいつらが何かしようもんなら……絶対におれが、黙っちゃいねぇから」
瑞々しく輝く若葉色の瞳が、真摯な色を湛えてユフの顔を捉える。
すると、息苦しいほど張りつめていたユフの心は、不思議なほどするすると綻んだ。
出かける前までは、まだあどけなさを残していた少年の手のひら。それが、今はとてつもなく頼もしいものとなって、ユフの両目に映ったのだ。
ユフはほっと表情をゆるめ、差し伸べられた手のひらにそっと触れる。
「……うん。ありがとう、レンくん。嫌わないでいてくれて」
「はぁ? おれがあんたを嫌うわけ……」
そこまで言った後に、レンは唐突に恥じらいの感情を覚えたらしい。
真っ赤になった顔を背けると、レンは握った手のひらをものすごいスピードで振り払ってしまった。
「……ま、まぁ。嫌うか嫌わないかっつぅことに関しては、その……こ、今後のあんたの態度次第なんじゃないの?」
すっかりいつもの調子に戻ってしまったレンを見て、ユフは思わず声を立てて笑いだす。
そうして、すかさず自分の力で立ち上がると、今度はユフの方から、雪のように白い手のひらを差しだした。
――一度は消えてしまった命を見つめ、新たな時間を吹きこんだ少女の手だ。
「……」
レンは口をへの字に曲げ、彼女の手首をがっしりと固定する。
そうしてやや乱暴な手つきで、こびりついた砂の粒を払い落とすと、いつになく強い力で、その手をぎゅっと握りしめてくれた。
そのまま何も言わずにきびすを返し、屋敷への道をたどり始めたレンの背中を見て、まったく素直じゃないんだから、とユフは眉を下げてクスリとほほ笑む。
……重なりあった二つの手のひらは、示し合わせたかのように同じぬくもりを持っていた。