天気は晴れだから、その日も彼女はオルガンを弾いていた。
新しく調達されたばかりの、真新しいレースの掛け物は、黒板消しクリーナーのすぐ側に、荒々しく畳んで置かれていた。
オープンスペースの窓から風が吹きこむたびに、薔薇の刺繍がふわふわと浮き上がってそよぎ、まるで彼女の奏でる音楽に合わせて、レースの敷物がリズムを取っているかのようだった。
彼らが風の波を描いてゆくと、楽譜立ての上に立てかけられた楽譜でさえも、黄ばんだ面を波紋のように揺らす。
振動は徐々に大きく膨れ上がって、やがては譜面台から楽譜を突き落としてしまいそうになる。
ぺらぺらと脳天気な声であざ笑う楽譜たちは、少なくとも侑記よりかはよっぽどおしゃべりであるらしい。
茶色い木箱の中から紡がれたワンフレーズが、きれいな輪郭をともなって耳元へ飛びこんでくる。
そうして波打つ楽譜の一番てっぺんに書かれた文字列を見送った瞬間、侑記は思わず「あ」と短い声を上げた。
次いで、今度はそれに気がついた彼女の方が、「え」と顔を上げて尋ね返した。
「あ」と「え」というひどく易しいかけ合いの後には、彼女が指先の動きを止めたせいで訪れた、巨大な沈黙の泡が現れる。
泡はどんどん膨らみ続けて、さぁ、果たしてこれはいつどちらの手によって割られるのでしょうかと、二人に問いかけているかのようだった。
「どうしたの」
彼女の方が口を開いたその瞬間、そうだ、その言葉を聞かれたかったのだと侑記はうなずいた。
「ノクターン第二番、変ホ長調」
口に出して言ってみると、彼女はいつになく嬉しそうに笑った。
「知ってたんだ」
「家でよく聞いてたから」
少女が口角を上げてふわりと微笑み、すべるようなオルガンの音がもう一度流れだした。
オルガンを練習していたのは、隣の席に座っている、星野という名前の少女である。
オルガンといえば彼女、と教員たちからも一目置かれるほどに、すばらしい伴奏者として有名な生徒であった。
おまけに彼女は成績が良く、顔もそこそこきれいだった。
鼻は少し大きいが目元がはっきりしていて、決して色白の部類には入らないがスタイルがいい、でもやっぱり身長はそれほど高くないし、顔の大きさも小さすぎる方ではない、といったような、清純な印象を抱かせるタイプの顔立ちだった。
全てがそろって完璧すぎるわけではないところが、気味の悪さがなくて逆に良いのかもしれない。
しかし、彼女は極端なほど内気でおとなしい性格だったから、あまりクラスの男子と話をしている姿を見かけたことはなかったし、彼女自身もだれかに話しかけられないかぎり、自分から進んで何かを話すタイプではなかった。
いつも机に向かって例のあのことをしているか、オルガンに向かっているか、もしくは曖昧に微笑んでいるかのどれかであった。
したがって、どんなに容姿が美しかろうが頭が良かろうが、クラス委員としてみんなを引っ張っているわけではないし、彼氏をとっかえひっかえしているわけでもなかった。
そういう少女もいるのだ、ということを侑記は彼女と出会って初めて知った。
曲が終わると、春風にそよぐ草むらのような沈黙が二人の間にたちこめていた。
立ちつくしている侑記には、特にやるべきことは残されていなかった。
オルガンの譜面台はほこりひとつなくきれいに掃除されていたし、コンセントもつまずかないような場所に、きちんと丸めて掛けてあったからだ。
仕方がなくそのまま黙りこくっていると、先ほどの楽譜を閉じながら、彼女は笑顔で問いを付け加える。
「及川君も音楽にくわしいの?」
「いや。うちで昔よく流れてたから、たまたま覚えただけ」
「そうなんだ」
彼女もやはり、相づちを打つ以外に特にやることがなさそうだった。
隣にあった楽譜をめくってページを探し出すふりをしながら、空白の時間を懸命に埋めようとしているらしい。
だから、侑記はついつい口に出してしまったのだ。
「星野さんは、皆と外で遊ばないの?」
「うん」
「どうして」
「運動することはそんなに得意じゃないから。突き指をすると困るし、皆にも迷惑をかけるから、ドッヂボールはきらい」
きらい、という発音が思っていたよりもずっとくっきりとしていたことに、侑記はぱちくりと瞳を瞬いてしまった。
授業中では隣の席から優しく自分に文章の読み方を教えてくれて、友人にはいつでもほのかな笑みを振りまいている彼女が、こんなにも嫌悪感を露わにする姿が想像できなかったのだ。
「僕もボールが当たると痛いから、ドッヂボールはきらい」
彼女のまねをして強がってみたものの、これは決して侑記の本心そのものではなかった。
確かに、冷たくて固いボールに当たるのは怖いし、人に当てて楽しむことも好きな方ではないから、ドッヂボールというゲームはそれほど得意な部類には入らなかった。
しかし、侑記がこうした毎日の昼休みに、クラスメイトたちと共にグラウンドへ出ることができないのには、もっと違った理由があるのだ。
それは、小学三年生のころ、昼休みに恒例のドッヂボール大会に参加していた際に、補聴器にボールを当てられて破損させてしまったためである。
以来、担任の教師と父親にこっぴどく叱られ(言うまでもなく、補聴器の値段は相当高いのである)、それから先は一度も球技系のスポーツに参加できたためしはない。
「……」
少女は頭が良かった。
侑記の無言は決して不機嫌ではなく、はけ口のない言葉を抱えていることに対する戸惑いなのだということを、まるでずっと昔から知っているかのような顔で、侑記の薄い瞳をじっと見つめ返しているのだった。
「そう。それじゃあ私たち、一緒なんだね」
おまけに、実に都合の良い解釈まで付け足して、にこりと顔をほころばせてくれた。
チャイムが鳴った。『恋は水色』のメロディが鳴り終わるまで、あと数秒間のときが要る。
その瞬間、誰もいない教室で、二人きりで話をしていたのだという事実に気が付き、侑記はにわかに慌てだした。
彼女もまた同じことを考えたらしい。唐突に無口になり、下を向く。
その視線の先にある楽譜の端に、侑記はHBのシャーペンで素早く文字を書き連ねた。
『星野さんは、下の名前なんていうの』
彼女は少しの間思案した後、ゆっくりと丁寧に糸へんを書き始める。
『紗弓』
さ、ゆみ。
音を伴わない唇が、そう動く。
彼女ののども、自分ののども、問題なく声を発することができる仕組みが整っているのだというのに、お互いが顔を見合わせて、文字だけを間に取り持ちながら会話をしているというのは、実に不思議な気分であった。
かつて、侑記の姉はこんな発言をしたことがある。
「いい、侑記? さ、っていう文字が名前の一番最初にくる女の子には、美人な子が多いんだよ。サオリとかサオリとかサオリとか!」
どうやら彼女の友人には、サオリという名のとてつもなく美人な友人がいるらしい。
しかし話を聞いておけばなるほど、サユミという名前を持つ目の前の少女は、サオリにはかなわないかもしれないが、なかなかの美人であった。