Scene8

シュレッダー少女


 シュレッダー少女と友達になったのであろうと、侑記は思う。
 シュレッダー少女というのは、つまり、誕生日に買ってもらったシュレッダーを毎日学校まで持ち歩いていて、誰もいない休み時間になると、いつもハンドルをぐるぐる回して紙を切り裂いているという奇妙な少女のことである。

 どうしてそんなものを買ってもらったのかと問えば、それ以外に欲しいものがなかったからだと紗弓は答えた。
 朝日新聞のクロスワードパズルの商品に、電動シュレッダーが載っていたことがあったが、これは果たして誰が欲しがるのだろうかと、侑記はその日真剣に考え込んでいたものだった。
 だからこそ、それを有効活用している人間がいたことが意外でもあり、嬉しくもあって、それ以降はどんな相づちを返したのかも覚えていない。

 親の仕事を手伝っているのかとも思ったのだが、どうもそういうわけではないらしい。
 何か重要な書類であるのかと思いきや、日に透けている鉛筆書きの文字は、非常に幼い上に相当な小ささであったからだ。
 彼女は今日もシュレッダーのハンドルを回している。
 ざくざくと響く紙きれたちの悲鳴に、時折わずかに口角を持ち上げながら。

 どんな紙をシュレッダーにかけているのかと問えば、笑わない? と声のない世界から彼女が問うてくる。
 侑記が声のない世界からうん、とうなずくと、あのね、ヒット曲の歌詞を書いてるの、と彼女は真っ赤になった顔を恥ずかしそうにうつむかせた。

 自分で作った歌詞を書いてるの、なら恥ずかしくなっても当然だとは思うのだが、紗弓がどうしてそこで真っ赤になっているのかが理解できなかった。
 おまけに、ヒット曲の歌詞を書いてシュレッダーにかけるというその行為に、そもそもどんな意味が込められているのかも理解できなかった。

 けれど、おそらくこれだけは言える。意味があるものにしろないものにしろ、彼女はひたすらに文字を書き続けていかなければならなかったのだ。
 彼女は普段の言葉を話さないぶんだけ、別の形で言葉を生産していないとやってはいられない。
 しゃべらないことには、しゃべらないで溜めこんでいた毒素を浄化するための無駄なエネルギーがいる。
 しかもそれは実際に声に出すよりもずっとずっと燃費が悪いのだから、厄介であった。

 それにしても、どうしてそんな小さな文字で書くのかと尋ねれば、紙がもったいないからなどと苦笑して答える。
 ついこの間、字が小さい生徒がいて困っています、と担任に文句を言われたばかりだというのに、意外と意志の固い彼女はぜんぜんこりていない様子であった。
 その、風に吹かれればすぐに折れてしまいそうな細い身体にそぐわず、案外頑固なところが、彼女の良いところだと侑記は思っている。

 だから、侑記は笑ったまま黒板に大きな文字で「ECO」と書いた。
 それはなに、と眉をしかめた紗弓に、「環境にいいこと」と侑記は答える。
 彼女は顔を輝かせて「エコ」という二文字を唇の先だけで答えた。
 うん、そう、それ。と侑記もまた声もなくうなずく。


 その時、突然、紗弓が傍にあった教科書を三冊ほど積み重ねた。
 侑記はその上に黒板消しを積む。
 今度は紗弓が楽譜の束を積んだので、お返しとばかりに侑記がノートを積む。
 マグネットもプリントも教卓の中のわら半紙も積んだ。

 だんだんと塔が高くなってゆくごとに、侑記はまるで自分がその積み上げられたオブジェの端に指先を引っかけて、そこを懸命にのぼっていくような思いを感じていた。
 後ろからついてきていた紗弓が、いつの間にか隣に並んで塔をのぼっている。
 地道に積み上げてきた本があって、それがあるからこそ塔があることはわかっているのだが、さて具体的に一体どういう形のどんな色のなにを組み立ててきたのかと問われれば、あっというまに途方に暮れてしまう。
 上の方の部品はかろうじて答えられるものの、下の方にいけばいくほど、それはどんどん霧の下にかすんでいって見えなくなってしまう。

 それにほんのすこし居心地の悪い思いを覚えながらも、それでもこの塔がそれなりに立派な高さになっているのだ、という事実にすべてがかき消されて、結局はひとつひとつのパーツのことなんてどうでもいいじゃないか、という結論に達する。
 実際、塔のてっぺんまで上り詰めたとき、紗弓はにっこりと満面の笑みを浮かべて、汗だくの額に張り付いた前髪をのけながら、「ああ楽しい」と声に出さずに呟いていた。
 その笑顔が全てを物語っているような気がして、侑記も笑う。
 笑うごとに崩れていく何かを目に見えぬどこかに感じながらも、笑うしかない。だってそれ以外に何ができるだろう。


 『恋は水色』の、チャイムが鳴り始めた。

 もう席に戻らないとね、とどちらともなく目線だけで告げれば、どちらともなくうんとうなずいた。
 紗弓はやや緊張した面もちで、ゆっくりと胸の前まで手をあげる。
 黒目がちの大きな瞳が、暗くて強い光を放ったような気がした。

 ちょうど、彼女の手の甲がこちらに顔を向ける形となる。
 ピアノをやっているというわりには、白くて細くて、水底に沈んだヒトデの子供のような手であった。
 まるで薬指にはめた銀色の指輪を、こちらに見せつけるために翳しているようにも見えたが、もちろん彼女の指には光るものなど見あたらない。
 不思議に思ったものの特に尋ねるべき問いも見つからず、侑記は黙って彼女のことを見つめ続けることにした。

 そうこうしているうちに、彼女はようやく決心したように唇を引き結ぶと、あげていた手をぎこちなく、本当にぎこちなくゆっくりと左右に揺らし始めた。
 振られた手のひらからは、におい付きけしごむの不気味な芳香がした。

 しかし、二、三回往復したあたりで紗弓は何かに気がついたのかハタリと動きを止め、ぐったりと表情を曇らせたまま手のひらを廊下の上に滴らせてゆく。
 下ろした手のひらが、彼女のワンピースの脇でぶらぶらと物憂げに揺れていた。

 そうして、紗弓はきびすを返す。
 声のない沈黙の中に、肩まで伸びた彼女の黒髪が、さらりと擦れる音だけが落ちた。
 いったい何に落胆したのだろうか、そのわびしく丸まった小さな背中を、侑記は黙って見送っていた。
 かけるべき言葉の発音の仕方も見つからないが、そもそもかけるべき言葉というものさえも見つからない、そんな奇妙な感覚を湿った舌の上で味わいながら、相変わらずのっぺりと平坦な二度目のチャイムを聞いた。

 子どもたちがわっと、教室に駆けこんでくる。
 騒がしい喧騒が補聴器の中に飛び入って、きぃんと嫌な耳鳴りをもよおした。





 

 

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