翌朝、リツは町外れの修道院にて、絵本の読み聞かせを行なっていた。
店を温めたり、食事を作ったりする際に使う、暖炉の薪を一番たくさん分けてくれるところだからだ。
今日のお話は、盗賊たちと勇敢に戦い、身分違いの娘と結婚した、どこぞのすてきな王子さまの物語。
夢のような物語の一部始終を読み上げたリツは、心の中でひっそりと溜め息を吐きだしていた。
――もしもこの物語が、空想のお話なんかじゃないと言ったら、子どもたちはどんな顔をするだろう?
きっと、ただでさえ純粋な瞳をいっそう輝かせて、幸せな結末に手を叩き合うに違いない。
ましろい昼間の帰路をとぼとぼと歩きながら、リツはそんなことを考えていた。
陽が落ちる頃合いになれば、近くの工場からどっと客が流れこんで来るから、用事は手早く済ませておくに限る。
くぁっと子猫のように背伸びをして、ただいまと自分の家の扉を押しこんだ。
「おかえりー」
すると案の定、そこには黒いエプロンを括りつけて、ケトルを持ち上げる栄一の姿があった。
フライパンのフタをあけ、甘い香りと湯気がたちのぼる中、黄金色のフレンチトーストをすくいあげて皿に乗せている。
「……なんでまたてめぇがおれの台所に」
「だって、リツの家のキッチンの方が広いんだも」
「んがぁっ! だからそうやって唇を尖らせて拗ねたフリすんなッ!」
と、リツが自分のスリッパを振り上げてから、およそ四秒ほどの間をおいたそのとき。
初めは、ちょうつがいがぎぃ、と遠慮がちな調子で鳴った。
しばらくして店内のかすかな物音に気がつくと、少しだけ強めにノブを押しだし、そうして大きく開けた扉の中に、見知った人物の姿を見つけると、金髪の少女は笑みを輝かせて、まっすぐにこちらまで飛んで来る。
「栄一さんっ」
「やあ。来てくれたんだね」
その笑顔だけで、おそらく何かがわかってしまったのだろう。
栄一の笑みがいつもよりも一段と深くて、そしていつもよりも一段と寂しげなものに変わったことを、リツは悟った。
案の定、トリは玄関ホールに駆けこんだ姿勢のまま、若々しく張りのある声で叫ぶ。
「返事が来たんですっ! あの方から、お返事が来たんですっ!」
「……本当に」
「はいっ!」
誰よりも先に、彼に報告したいと思ったのだろう。全速力で駆けて来たせいで、汗ばんだ白い額に前髪がはりついている。
よたよたと、おぼつかない靴音で歩いてきた少女を、栄一はあくまでも紳士的に出迎えた。乱れたストールの向きを直し、ねじれた鞄の紐を整え、紅潮した頬にふれるようになでてから、そっと彼女の顔をのぞきこむ。
ひとつひとつの動作にこめられた、線の細い緊張感を、きっと彼女は知らないだろう。――ゆっくりと、丁寧に“いつもどおり”を装っている、彼の想いなんて。
「すごいじゃないか、こんなにも早く」
「あの、あの。読んでいただけますかっ?」
絶え間なく弾む息とともに、わくわくと期待に満ちた目が投げかけられた。静かな苦笑を広げて、栄一が応える。
「……僕みたいな」
指輪の光る右手を口元に寄せて、冗談めかしく首をかしげる仕草。
「むさくるしい声でいいのかい?」
「なに言ってるんですか」
ぷくぅ、とどこまでも邪気のない愛らしさで、彼女は頬を膨らませた。
「栄一さんの声はすてきですよっ」
「はいはい」
あ、信じてないでしょう。とむくれたように告げる声を聞いても、栄一は未だにくすくすと笑い続けている。
そのひどく表面的な笑い方を見ているだけで、リツの胸にはちくちくと刺さる言葉があった。
『おまえ、全然気のない子にはいくらでも可愛い可愛い言えるくせに、ホントに好きな子には、絶対可愛いって言えないクチだろ!』
――言わなきゃ良かった、とリツは思う。
大勢の人間に向けることができる、平等な優しさというものがあるいっぽう、意識的に冷たい態度をとってしまう、動かしがたい憧れもあるのだということを、リツも栄一も知っていた。
でも、たとえ知っていたとしても、もしもあんな顔させるくらいなら、口に出して言うべきではなかった。
「……さて、と」
栄一は便せんを傷つけたり、折り目をつけたりしないように、手袋の指先を慎重に折り曲げて、封筒からゆっくりと手紙を取りだし、目の前に掲げる。
その所作に見とれているように映る少女は、実はその手紙を透かした向こう側しか見えていないのだ。
リツは今にも割れてしまいそうな唇を噛んで、じっと胸の内の声を閉じこめた。
――やめてやれよ、そのへんでよしてやれって。
――文字を読めるやつなら、ほかにいくらでもいるんだから。そいつに全部任せればいいだろう。
――どうして、よりにもよってこいつに、そんなことを頼むんだ。
「――親愛なる翔歌さま」
丁寧に便せんを開き、栄一は穏やかに口を開く。
まるで、異国の王子になったかのような堂々たる口調で。
うきうきと胸を高鳴らせる少女につられて、自分までわくわくしてきたかのように、無理やりにでも明るい声を出そうとしている。
「あのとき買い取った宝石は、城の柱の装飾に使いました。裏側が綺麗な貝殻などといっしょに砕いて、ステンドグラスの隙間に詰めたのです。うつくしい青色がとてもよく映えたため、姉も大変喜んでおり、あなたとの出会いに感謝しなければならないと言っています。あなたはあのときのお金を使って、もっと素敵な宝石を買えたでしょうか。そうであったらと願ってやみません」
でたらめにキーを上げた歌声が、奇妙な場面できしんだ。
喉を押さえて軽く咳払いをして、栄一は続ける。
くすりと笑うトリにつられたように、またしても無理やり口角を持ち上げる。
震えて、うまくできないことを悟った彼は、急にまじめな顔つきになったような演出をした。
きりきりと痛む胸を押さえるリツの眼には、じんわりと雫が溜まっていった。
「僕はあの日はじめてあなたの町を訪ねました。緑と石造りの建物がとても見事で、もっとあの町のことを知りたいと思いました。もしもう一度あなたとお会いできるチャンスがあるのだとしたら、ぜひあなたの好きな町の名所を案内してください。そのときまでに、僕はもっとあなたの町のことばを勉強しておきたいと思います。素敵な手紙をありがとう。――愛をこめて。ソラ」
澄みきった青色の名前が、鮮やかに手紙を締めくくった。それがすべてだった。
沈黙が充ち、風の音が聞こえなくなってからも、誰もが動くことを忘れてしまうような名前だった。
その中で、鈍く痛みを堪えるような栄一の呻きは、感極まった少女には届かなかったらしい。
肩をふるわせ、涙に濡れた瞳を持ち上げた少女は、震える唇から嗚咽まじりの声を紡いだ。
「栄一さん。わた、わたし……! あなたがいなかったら、わたし、こんな夢みたいなことが叶うわけないって、本気で思ってました……もう無理だって思ってました……!」
「……」
「本当にありがとう……ありがとうございますっ!」
泣きながら飛びこんで来た少女を抱きとめながら、栄一は遠い虚空をぼんやりと見つめていた。
まるで、世界が昼間の凪のようなもやに包まれて、穏やかな終末を迎えたような景色だった。
その沈黙に、奇妙な違和感を覚えたのだろう。夏の天涯のような瞳が、不思議そうに瞬かれるその寸前。
がらがらと崩れてゆくふたり分の時間を破ったのは、栄一のほうだった。
しぼんだ風船から吐きだすような、空虚な溜め息とともに、そっと少女の肩を押す。
「――おまじないを」
青みがかって澄んだ黒色が織る、やさしい笑顔が手をのばす。
「……あげるね。きみの恋が、実りますように」
天体の磁力に引き寄せられるように、彼の手のひらがトリの頬に触れた。
おそらく、何が起こっているのかわかっていないのだろう、少女はきょとんと睫毛を弾く。
その表情を最後まで見届ける間もなく、静かに滑った指先が、今度は彼女の金糸をほのかに梳いた。薄くてやわい、髪の生え際の皮膚が現れると、栄一は目を細めて身体を屈めた。
そうして、くすぐったそうに笑うトリの額に、触れるだけの華奢な口付けを掠めさせる。
唇からそっと移したのは、わずかな体温と吐息だけ。
それでも、こころなしか嬉しそうに頬を染めた少女は、帽子を押さえたまま勢い良く顔を上げると、大きく頷いて満面の笑みを浮かべた。
「――はいっ。ありがとうございましたっ!」