Chapter3

decrescendo plan-3


「透明……人間?」

 さて、ここで話は冒頭の一言にとんぼ返りする。

「そーそー。前々から気になってはいたんけど、きみには素質があると思うんだよねー」

 始業開始の音楽が流れる会議室には、春歌先輩ののほほんとした声が充満している。
 対する俺の方はというと、もはや先輩の手前だからといって、きちんと畏まることなんて出来ない。とてもじゃないけど出来ない。
 自分用に印刷した資料を両肘で押さえ、俺は盛大に頭を抱えた。

「……ちょっと待ってください。つまり、それは何の比喩なんですか?」
「ぶー。比喩なんかじゃないってば。ほんとに、言葉の通り、透明人間!」

 いやいやいや……あのですねあのですねちょっと待って落ち着いて下さい俺。

「ははっ……まさか、冗談ですよね? そんな、おとぎ話みたいなこと本当にあるわけな……」
「皆、はじめはそう言うのだよ。松田爽太くん」

 至って涼しげな顔つきのまま、春歌先輩はぱちんと長い爪を弾く。

「でもね。冷静に考えれば、どこも不思議な話なんかじゃないんだよ? ほら、松田くんだって学生のとき、たとえば、前のクラスでいっしょだった人の中で、あんまり席が近くなかった子をきれいに忘れちゃってたりとか、廊下ですれ違った人の顔を覚えてなかったりとか、したでしょ?」
「……はぁ。まぁ……」
「このスキルは、そういう他者に残る印象や記憶を操作して、ちょっと大げさに増幅することで、応用できる形に整えただけ。だから、言葉だけ聞くとものすごいファンタジーな話に聞こえるかもしれないけど、実はすっごく現実的なことなんだよ?」

 首を傾げて困ったように諭されれば、ぐっ、と言葉に詰まってしまう。
 確かに、先輩の言葉通りに物事を捉え直せば、それはあくまでも日常生活の延長線上にあるものであって、単なる幻想譚ではないのかもしれない。……ないのかもしれない、が。

「そんなスキルを身につけるって、だって、一体何のために……」
「それはほら、うちって流行にうるさい飲料系の食品メーカーでしょ? 他社の状況を調査したり、戦略を見ておくのって、先を見越すためには死活問題になってくるじゃない。だから、スパイとして派遣される人たちの間じゃ、結構ポピュラーなスキルなんだよコレ」
「そ、それって! 相手側の会社にバレたら、100パーセント犯罪の領域なんじゃ……!」
「バレやしないよ。だってうちらは透明人間だからね」

 唇の端に小さなえくぼを作って、春歌先輩がにまーっと笑う。
 白い歯を見せて、得意げに胸を張るこの人のことを、俺は出会った当初から、ちょっと変わった人物だなぁとは思っていた。
 ……思ってはいたけどさ、こんな怪しげな力を身につけてるなんて、そんなの微塵たりとも考えるわけないじゃないか。

「私だけじゃない、ここの部署の人間は、みんなそのスキルを持ってるんだよ。もちろん、うちの会社から頼まれることは多いけど、最近では他会社からの依頼も受けて、同時進行で仕事をこなしたりもしてるんだ。ね、言われてみないと全然わかんなかったでしょ?」
「や、あの、でも!」

 話に熱が入り始めたのか、次第に前のめりになって接近してくる春歌先輩に、俺は両手をかざしてストップをかけた。

「そんなこと言ったって、俺は……!」
「ええー? もったいないよ。これって、そんじょそこらで身につくようなヤワなスキルじゃないんだし!」
「そりゃまぁ、そうでしょうけど……」
「ね、だってさ考えてもみなよ」

 春歌先輩がぱしん、と机を叩くたびに、3枚綴りのレジュメ(作:俺)がひらひらと踊る。

「さっきみたいな目的は確かにあるけど、それを抜きにしてもさ、透明人間って便利だよー? 終業時間前に仕事が終わっちゃったとき、いつまでもぐだぐだ会社に居続けるの、面倒だなーって思ったことない? あーあ、この時間ムダだなーとか、あと30分で見たいテレビが始まるのにー、とかさ!」

 ……確かに。
 俺は先週の金曜日、大学の研究室の同窓会があったにもかかわらず、上司の残業に付き合うハメになって、結局参加できなかったことを思いだした。
 不承不承ながらも唇を噛みしめると、春歌先輩は可愛らしい小鼻をぷくりとふくらませる。

「そういうとき透明人間になっちゃえば、ちょっと早めにおまけして帰っても、だーれにも責められやしないんだよ。ね、うちって出勤簿つけ忘れても、次の日申請すればたいがい許してもらえるし」

 ……あ、なるほど。
 先ほどまで不審に思っていた最大の疑問が、今ここでようやく答えに結びついた。

――俺がつい最近まで、春歌先輩の姿を一度も見かけなかったのは、この力があったからだということか。

 大方春歌先輩は、終業時間よりも早めに、いわゆる「透明人間」となって姿を隠し、翌日の出勤簿に嘘の時刻を書きこんでいたのだろう。
 にもかかわらず、彼女が今まで一度もクビになったことがないのは、先ほど彼女がちらりと口走った、「記憶」の操作が関係しているといった具合か。
 いずれにせよ、どうやら効果は本物のようだ。

「もちろん、いつも透明人間になっちゃうってわけじゃないよ。必要なときに、必要なところだけ自分の存在を隠すことが出来るから、日常生活に支障をきたすわけでもないし。ねっ、どうよ! なんだかスゴく楽しそうでしょっ?」

 そう言って華奢な身体を乗りだして来る先輩は、きらきらと瞳を輝かせたまま、俺の両手をしっかりと握り締めている。
 俺は素直にうろたえた。
 少し視線を持ち上げれば、目前に広がるのは、天井めがけてぱっちりと反り返った睫毛と、薄紅色のチーク。しっとりと潤んだ発色の良いリップに加えて、どことなく白桃を思わせるコロンまでもが鼻をつく。
 ぐらり、と視界が眩むような心地がした。
 疲労の海に沈んで仕事をする、かつての俺たちとは180度異なり、彼女のすべてが、まるで生き生きと瞬く朝焼けの海のようだ。

「……俺の、今の上司は」

 握り締められた手のひらを軽く振って離し、俺は真正面から彼女を見据える。

「春歌先輩、あなたですから」
「……お?」
「たとえどんなことがあったとしても、俺はあなたに付いていきますよ」

 ……とどのつまり、俺は信じることができなかったのだ。
 これまでの部署も、過去の上司や同期も、そして……あまつさえ俺自身のことですら。
 そんな路頭に迷った非力な人間に、今更首を横に振る勇気なんてそんなもの。




――ひとかけらだって、湧いてくるはずがなかったわけだ。





 

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