Chapter5

decrescendo plan-5


 そんなこんなで、“透明人間”になる訓練を始めてから、約1ヶ月の時がすぎた。
 ジャズ・フュージョンのプレイリストを再生しながら、俺はここ数日の間に起きたさまざまな出来事に思いを馳せる。
 このところ、春歌先輩直々の特訓の成果が、立て続けに実を結び始めた。
 まず、どうやら俺はかなり人眼につきにくい体質になってしまった、らしい。
 周囲にぼんやりと認識はされているようだが、すれ違う社員の人々に挨拶をしても、まともに返されない回数が格段に多くなった。
 中には、廊下を歩く俺の姿すらよく見えないのか、真正面から遠慮なくぶつかってくる社員も大勢いる。
 そんな人々を慌てて避けながら、階段を全速力で駆け上がるなんてこともざらにあった。
 接触は周囲の人々に少なからず“印象”を与えてしまうので、廊下を歩くときは、いつも有刺鉄線の間を歩いているかのように緊張する。

 しかし、移動よりも何よりも一番困るのは、昼食の調達をする時だった。
 何せ、コンビニのレジに並んでいても、後ろからやってきた人々にどんどん追い抜かされてしまうのだ。
 そのため、基本的にものを購入するときは、人々が群れにくい時間帯を狙って、単独で購入しに行かざるを得なくなった。
 レジで店員に商品を出せば、何の滞りもなく会計をすますことができるので、不思議なものだと俺は首をひねったが、これは春歌先輩いわく、不自然な消失をカバーするための防衛機能らしい。
 たとえば、もしも俺が廊下でうっかり誰かとぶつかってしまったら、その瞬間から俺の存在が相手にもわかるようになるという。
 つまり、俺の姿は完全に透明になっているわけではなく、相手の意識から一時的に除外されているだけなのだそうだ。
 だから、俺がおにぎり一個を持ってレジの前に現れても、おにぎりは宙に浮いているようには見えないし、店員は差し出されたものを受け取って、素直にバーコードを読み取ってくれる。好都合なものだ。
 これからもっと厳しい特訓を重ねれば、自分の存在をより細かくコントロールできるようになるそうだが、まだ練習を始めて1ヶ月ということもあって、今の俺にはこれが限界といった状況だった。

 最初は少々とまどいもあったものの、今まで積み重ねてきたことが成果として出てきた、という点では、ちょっとした達成感を覚えた。
 それに、人々の反応は単純に新鮮で面白かったし、俺ひとりが異質な存在であるかのように錯覚して、不思議な高揚感を覚えるときもあった。
 しかし、そんな悠長なことを言っていられなくなくなるような、決定的なことがひとつだけ起こった。
 それは、今“現在”の俺の問題ではなく、“過去”の俺に関する事柄であったわけなんだけれど。



 その日俺は、印刷済みのハンドアウトを回収するため、7階のとある部署まで足を運んでいた。
 わざわざ外部の世話になるハメに陥ったのは、うちの部署に所属している先輩……ルークさんが、プリンターのカートリッジを交換しようとして、インクヘッドを見事に破損させたためだ。
 俺の認識の中では一番まともな、轟先輩がすぐさま修理の依頼を出してくれたものの、お得意様は10時過ぎまで接客中らしく、午前中いっぱいはこのままの状態もやむを得ないとのこと。
 そこで、各自が作成したデータを1本のUSBにまとめ、コールセンターのプリンターをお借りすることに決めたのだ。あそこ、プリンター使うことなんてめったにないし。

「ごめんね松田くん、うちのルークが馬鹿なせいで、きみにわざわざこんなこと……」
「おーい栄一くーん。馬鹿はないだろ馬鹿はぁー」

 爽やかに「馬鹿」を連呼する轟先輩と、椅子にもたれかかったままポッキーをかじっているルーク先輩、それぞれに1回ずつ会釈をしてから事務室を出る。
 春歌先輩もたいがい変わってるけど、この2人もなかなかに個性的だ。さすがは“透明人間”という特殊なスキルを身につけるだけある。

 そんなわけで、俺は久しぶりに入社当初配属されていた、7階のフロアへと降り立った。
 外部の受付に取り次ぐときは、でっち上げた部署名を強調することで、俺自身の印象を薄くする努力を怠らない。
 特訓の成果を抜かりなく発揮し、まだ温かい印刷物の束を抱えこんだところで、俺はふと、せっかく同じフロアに足を運んだのだから、少しぐらい前の部署を覗いてみようか、という気持ちになった。
 考えてみれば、このところ朝の出勤時間は、人にぶつからないように歩くのが必死で、他のフロアのことなど眼中に入らなかった。
 久々にゆっくりと呼吸を落ち着けて、過去の記憶がセンチメンタルに思い起こされたのか。あるいは、新しい仕事にようやく慣れて、精神的なゆとりが顔を出したのかもしれない。
 自身のスキルに対するちょっとした自負も相まって、俺は何の警戒心も抱かないまま、そろりそろりと懐かしい一角につま先を滑らせた。

 変わらない配置で並べられたデスクと、今月の予定が記された大きなホワイトボード。
 今日の日付には赤い文字で、「大森 出張」と書かれている。
 どうやら新入社員を電話番に残し、お偉いさん方はこぞって出先のようだ。
 以前はひとつ足りなかった電話も、配線工事を行ったのだろうか、内線表ともどもきちんと整備されている。
 社内の規定上、未だ暖房をつけることは許されていないので、寒さに弱い女性社員の足元には、膝掛けと電気ストーブが4セットほど用意されていた。
 かつて俺が働いていた季節からは、決して想像できなかった光景だ。
 時の流れの早さにしんみりと浸っていると、一番奥のパソコンの影に、2対の金髪が隠れていることに気がついた。
 よくよく耳を澄ませれば、人気のない部署内でひそひそと内緒話に華を咲かせている。
 どんなに声を潜めても、持ち前の高い声を隠しきれない女性――あれは、おそらく以前から行動を共にしていた、翔歌トリさんの声だろう。
 もう1人は男性の声だった。こちらはどうにも聞き覚えのない声だ。
 それでも、はきはきと明瞭で聞きとりやすく、聞く者に親近感を抱かせるその声に、どういうわけか胸の左あたりがちくちくと痛みだす。

「そういえばこの会社ってさ、やるのかな」
「なにを?」
「あれだよあれ、忘年会!」

 翔歌さんの声が、持ち前の金髪と共に一段と高く跳ね上がる。
 そんな彼女の姿を見て、向かい側の住人はひとしきり苦笑を堪えた後、背もたれに身を任せて天井を仰いだ。

「あのさ、翔歌ってあれだよね。そういうイベント事は絶対ハズさずに覚えてるよね」
「失礼なっ。昨日の会議だってちゃんと忘れなかったよ!」
「それは忘れないで下さい、頼みますから」
「あーあ。ソラくんはほんと、私と違ってしっかりしてるなぁ……つい最近こっち異動してきたばっかりなんて、うそみたい」
「前のバイトで似たようなことやってたから、だいたいの勝手がわかるってのもあるけど……なんかほんと、俺も最近こっち来たような気がしないんだよね。不思議だなぁ」

 オフィスの壁越しに、ちらりと“ソラくん”の蒼色の瞳が見え隠れする。
 ただただ純粋に、整った顔立ちの人間だな、と思わざるを得なかった。
 それでいて相手に不快感を与えさせない、気さくな口調と大らかな態度。

――あの人が、俺の代わりにこの部署に異動してきた人物なのだ。

「で、何の話だっけ?」
「だから忘年会……ってああ、そっか。そういえば前回の納涼会のときは、まだソラくんこっちに来てなかったんだよね。たしか前回はね、えーとわたしとボウちゃんと、波音先輩と重音係長と……13、14……って、あれ?」

 ……その瞬間。
 働きもせずへばりついていたエアコンが、ぎしり、と嫌な音を立てて大きく軋んだ。

「ん? どうかした?」
「あ、あれ。その。……おかしいなぁ。たしか、全体の人数は15人だったはずなんだけど……」

――もうひとり、だれだっけ。

 恥ずかしそうに縮こまった彼女は、顔を赤らめたままカチカチと自分のデスクトップを漁りはじめる。
 おそらく、過去にメンバーたちから集めた会費や、内訳等をまとめたファイルを探しているのだろう。

「あ、それじゃ他の部署に異動した人とかは?」
「他の部署? えーっとでも、うちは……」

――まだ、誰も異動とかしてないし。

 今度こそ、心臓がバリッと音を立てて凍りついた。
 全身のありとあらゆる汗腺が開き、どばっと冷や汗が噴きだしてくる。
 やべぇ、俺の体内ってこんなに水分溜まってたのか、とか場違いなことを考えて、なんとかその場に踏みとどまろうとする様は、傍から眺めればひどく滑稽だっただろうに。

――そうだよなぁ。俺もここに来る前から、そう聞いてたし。

 同意を口にする“新入り”の声は、彼女を励まそうとしているのか、妙に明るかった。

「事情はよくわかんないけど、たぶん翔歌の気のせいなんじゃない? 入力するときに誰かが数字打ち間違えたとかさ」
「そう……だよね。だって……だって、どんなに考えてももう1人いたとかそんなのおかしいし!」

――私、春からずっとこの13人の皆といっしょに働いてたもん。
――なんだよ、やっぱりお得意の勘違いかよ。
――ううう……。
――ま、こんくらいの勘違いなら可愛いもんだろ。……さってと! それじゃ、謎は解けたことだし昼飯にでもいかね?
――いいね! 今日は係長も出張だし、ちょっと早めに休憩しよっか!

 まずい、と俺は息を詰めたまま、扉の脇に立ちすくんで硬直してしまった。
 今から慌てて廊下に走り出たところで、足音を聞かれては立ち聞きしていたことがばれてしまう。
 それどころか、階段の踊り場まであんなにも距離があるのだから、たとえ走ったところで背中を見られない確証なんてどこにも――。

 ……そんな、俺の思考そのものを嘲笑うかのように。
 2人は、俺のすぐ真横を、何事もなかったかのように通過していった。

――まるで、俺という人間は、最初からこの世に存在していなかったかのように。

 慌てて2人の前に立ちはだかろうとした足が、地面に縫いつけられたまま、ぴくりとも動かなくなった。
 今までずっと目標にしていて、新鮮でおもしろいとすら思っていた“透明人間”という能力が。
 本当の素顔をのぞかせたとたん、俺はそれがいかに恐ろしいものであるのかということに、遅ればせながらようやく気がついたのだ。



 よろよろとおぼつかない足取りを、わざと大げさに誇張して歩いてみる。
 時刻は前半の昼休憩が始まる午前11時30分。首から名刺をぶら下げた黒スーツの人間たちが、思い思いの方向へ往来する。
 狭い廊下は談笑と喧騒と、購買で大人気のタマゴサンドの香りであふれていた。
 けれど、すれ違う人々は誰も俺のことを振り返らない。
 もっと、気がふれたおかしなアクションの1つでもすれば、ひとりくらい誰かが振り返ってくれるだろうか。俺がかつてどの部署に所属していたのか、今はどこで誰といっしょに働いているか、気がついてもらえたりもするのだろうか。
 でも、そんな大それたことをする気力も体力も一切湧いてこなくて、俺はずるずるとズボンのすそを引きずるように足を進めた。

 ……だって、たとえたいして役にたたなかったとしても、誰かにとって目障りだったとしても。
 俺はあの部署で、一度も遅刻をしたことはなかったし、会議を忘れたこともなかったし、頼まれた仕事を拒んだこともなかった。
 与えられた仕事を真面目にこなして、ある時には役に立ちそうな資料を自主的に付け加えたものだから、重音係長から「今時の若者にしては気が利くじゃないか」、と褒められたこともあった。
 旅行先のおみやげを配ったら、みんな笑顔でお礼を言ってくれたし、残業で遅くなった日には波音先輩から、自販機で甘ったるいレモネードを奢ってもらったこともあった。

 同期の翔歌さんとの思い出だってある。
 最初の頃は二人共いっこうに仕事に慣れなくて、片方が失敗すれば片方が褒められるし、片方が落ちこめば片方が慰めるしで、しょっちゅう食事の席で愚痴り合っては、他の部署の人に「そういうことは大きい声で話すな」、ってガチで注意されたこともあった。
 帰りの電車の方向も途中までは一緒だったから、会議室の机を拭く当番を交代制にしよう、とかせこいことを話しあったり、なめこのアプリがダウンロード出来ない、とか涙目になってる彼女のスマホを奪い取り、容量の削減を手伝ったことすらあった。

――それなのに。
――それなのに、どうして、あんな。

「ひっどい顔だなー」

 突然、辺りの騒音がぷっつりと途切れたような心地がして、俺は汗だくの額をゆるゆると持ち上げた。
 どうしてだろう、何も考えずに廊下を歩いて来たはずだったのに、俺はいつのまにこの会議室にたどり着いていたのか。

「……春歌、先輩?」
「積み上げてきたことが形になった瞬間、虚しい思いがこみ上げてきたとかそういう、女々しいことでも考えてるのかい?」

 いつもと何一つ変わることのない、飄々と通り抜けた明るい声。
 ……であるはずなのに、その射抜くような眼差しが、引き上げられた唇が、言い回しが、おそろしく冷たく圧し掛かってきたような気がして、俺はぼたぼた滴る汗を握りしめたまま、鈍いうめき声とともに震えあがった。
 がくがくと音を立てる膝の骨に力をこめ、よけいなことをしゃべってしまわないよう、懸命に唇をかみしめる。

「……」
「ねぇ、松田くん」

 仮面のような笑みを視界に貼りつけたまま、春歌先輩がやや強引な手つきで、後ろ手に隠していた物体を差しだしてくる。

「はいこれ、がんばったきみにプレゼント」

 そう言って、タオルケットにくるまれた、ずっしりと重たいものを手渡された。
 かなりの長さがあるので、覆いきれなかった先端の部分が、無機質な光を放ってむき出しになっている。
 禍々しい硝煙のにおいを染みこませたそれは、これまでに数多の人々の体液と、悲鳴の両方を吸い取ったはず。

――長銃、だった。

「なんですか……これ」
「何って……まぁ、見たまんまのもんだけど」
「……」

 じり、と一歩後ろに後退した俺を見て、春歌先輩はきゃっきゃと耳障りな声を立てて笑いはじめた。

「お。もしかしなくともびびってるな~? 心配しなくても大丈夫だよ! きみくらいの男の子ならむしろ扱いやすいくらいの重さだし、まぁ、赤い液体が入った水鉄砲か何かだと思ってればいいって!」

 笑顔でぽん、といかにも軽やかに肩を叩いた手は、かつて俺を励ましてくれたあの手と違い、まるで別人のように重たく冷たかった。
 こんな俺だって、少なくとも20年以上は、酸素を吸って二酸化炭素を吐いてきた存在だ。冗談と本音の区別がつかない子どもとは違う。

――彼女は本気だ。吐き気がするくらいに。

 それならば、これが今まで何に使われてきたもので、これから何に使われるものなのかっていうことくらい、俺にだってわかる。……彼女の目を見れば、厭でもわかってしまう。
 そして、自分がこれまで馬鹿正直に積み上げてきた金属片が、この銀色の塊に帰結したのだということも。――今みたいな女々しい気分じゃ、すんなり納得できてしまうのだ。

「……俺は」
「ん?」
「もう、後には引き返せないんですか――」

 どうしてだろう、心の中はとっくにからっぽになっているはずなのに、何故だかつぅ、と一筋の薄っぺらい涙がこぼれ落ちた。
 その雫が頬を伝って床に落ちるまでの一連の動作を、真面目くさった表情で見つめていた春歌先輩は、最後にはやっぱり唇の端にえくぼを作ると、悠然とした瞳で笑っていた。

「……透明度100%の世界へようこそ、松田くん。やっぱりきみは、天才だったね」




 

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