Chapter6

decrescendo plan-6


「あんだけ動揺しても気づかれないなんて、ほんとすごいよ。普通はさ、俺のことに気づいて気づいてーって思ってるとき、自然と“透明人間”にはなれなくなるもんなの。だから、松田くんはやっぱりすごい」

 ひと回りもふた回りも小さな手に引きずられながら、俺はぼんやりと薄暗い廊下を歩いていた。
 足を前に運んでいる感覚はないのだが、何故だか勝手に身体が前方へと進んでいるのだ。すごいな、人間ってこんな器用なこともできるのか。

――ああ、それにしても一体なぜなのだろう。

 あれだけ尊敬していたこの人に、こんなにも手放しで賞賛されているというのに、俺としたことが何ひとつとして心に響かない。
 その上、本来ならばお礼や謙遜を述べなくちゃいけない立場なのに、まともな言葉のひとつすら返せないなんて。
 ……それは、先ほどから変わらず右手に乗っかっている、重たい金属の塊のせいなのだろうか。

「……ひとつだけ聞いてもいいですか」

 強ばった唇から音らしきものを吐きだすと、春歌先輩は俊敏な動作で俺の方を振り返った。

「お? ひとつと言わずどんどん聞いていいよ」

 どこまでも無邪気な笑みを見下ろし、俺もまたあくまでも静かに微笑む。

「――この会社を、落とさなくちゃならなかった理由は?」
「……」

 一瞬、春歌先輩は若葉色の瞳を幼げに丸くしてみせた。
 しかし、余計なことを口にする真似は放棄したのだろう、つないだ手の力をいっそう強めて、もう一度真正面に向き直る。

「この会社はもともと、法人相手の飲料商品を中心に販売してたの。ルート営業で安定してて、コンスタントに収益が上がってた。その元手を使って社長が、今度は消費者向けの商品開発に乗り出したわけ。でもそれがまぁ、経験もないわツテもないわで大失敗。そんで親会社の紹介を受けて、もともとB to Cとしてキャリアを積んできた、とある企業に吸収合併されたの、それが今から10年前」
「……それじゃ、B to C関係の仕事は相手方に任せて、うちはもう一度B to Bの取引に戻らざるを得なくなった?」
「そーいうこと。それがおもしろくないというか、逆に無駄な闘争心に火をつけられたんだろーね。元社長――よーするに今の副社長は、親会社の利益の一部を、自分たちの収益に組みこむ違法プログラムを、恩を仇で返す形でパソコン上に忍ばせた。みるみる売上が向上し、多くの社員を採用する様子を見れば、もう一度自分たちにもビジネスチャンスが訪れるだろう、って塩梅かな」
「……」
「さて、ここで問題です」

 目的の場所に到着したのだろう。来賓用のソファに膝を組んで腰掛け、春歌先輩が澄ました猫のように鼻を鳴らす。

「親会社の収益が奪われていることは、社内のごく一部の人間しか知らない。となると、もしも万が一、ここで我が副社長が突然消息を断った場合、一番最初に疑われるところはどこでしょーか?」
「……っ! まさか」

 解放された左手をスーツ脇で握り締め、俺は見開いた瞳孔を凍りつかせた。
 とん、とヒールを蹄のように打ち鳴らし、春歌先輩はにんまりと唇の端を吊り上げる。

「そう。合併当初から数々のごたごたを引き起こして、互いのビジネスフィールドを分けあった両者の関係は、すでに多くの企業の間でも周知の事実。――つまり、今回の任務は親会社からの命令だよ。『子会社Aの副社長を社会的に抹消し、その容疑を本社勤務中の現社長にかける』。私たちはそのために派遣された、3年間の契約社員だったってわけだね」
「……3年間」

 ぽつり、と口に出してつぶやきながら、俺はその長いようで短い期間を反芻した。
 春歌先輩はこの3年間の間、我が社にあたかも通常の契約社員のごとく紛れこみ、部署全体を違和感なく“透明化”しながら、作戦決行の時を待ち構えていたということか。
 そして、その過程で単なる気まぐれなのか何なのか、とにかく限りなく“透明”に近い俺のことを発見し、面白半分に声をかけた。同じ任務に携わる人間を、一人でも多く増やすために。

 彼女の年表を想像の範囲内で作成していると、抜群のタイミングで先輩がさっと利き手を上げた。

「お。来た来た。――よっ。栄一、ルーク」
「ああ、春歌さん。……と、松田くん!? え、なんできみがこんなところに……?」
「……」

 それはこっちが一番聞きたいんすけど、と内心で唾を吐きながら、俺は黙って目を伏せていた。
 ……なるほどそうだよな。同じ“透明人間”のスキルを身につけているってことは、この人たちも皆グルだったってことだよな。

「よし、全員揃ったことだしそろそろ行こっか。あいつら皆、5階の応接室に集めてあるんでしょ? さっさと――」
「っ、ちょ、ちょちょちょっと待って春歌さん!」
「何さ」

 淡々と納得し始めた俺とは裏腹に、轟先輩は春歌先輩の肩をぐいっと掴むと、そのままやすやすと廊下の隅まで連れて行ってしまった。
 声を潜めているつもりなんだろうが、こんな静まり返った廊下で喋られちゃ、嫌でも俺の耳まで届いてしまう。

「……まさかとは思うけど、今回の任務に松田くんまで向かわせるとか、そんなスパルタなこと言いだしたりしないよね?」
「何言ってんのさー。ここまで来たらそうに決まってんでしょ?」

 表情筋を微動だにさせないまま、春歌先輩がしれっと言い放つ。轟先輩はハァと重苦しい溜め息をついた。

「……。何馬鹿なこと考えてるんだか……」
「いいじゃん栄一! 爽太もいるんならますます楽しくなりそうだし! なぁっ、そんなことよりも早く行こうぜっ! 早くしないと弾が冷めちまう!」

 ぱたぱたとしっぽでも振りそうな勢いで、上機嫌なルーク先輩が彼のもとへと滑り寄る。その発言には相変わらず、根拠があるんだか、ないんだか。
 轟先輩は、大人びた横顔に隠しきれない呆れを宿し、ルーク先輩の背広を軽く押した。

「……お前はいい加減落ち着きというものを身につけてくれ。先に行ってるよ、春歌さん」
「うーす」
「……」

 二人分の大きな背中を見送りながら、俺は俺自身のこれからについて訥々と考える。

――これから歩かざるを得ない道と、これまでの自分を裏切ることへの罪悪感について。




 

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