Scene10-2

シュルレアリスム-2


「……ねぇ、侑記」

 未だカーテンの向こうに顔を隠したまま、姉がいつになく弱々しい声を絞りだす。
 まさかこの状況で向こうから話しかけて来るとは思いもしなかったので、侑記はふいを突かれて面食らってしまった。
 声をかけてもなお、身動きひとつとらず沈黙を続ける侑記に対し、姉はしばしの間戸惑ったように考えを巡らせていた。
 しかし、やがて意を決したようにカーテンから顔をだすと、相変わらず似合わない怯えた声でぽつぽつと語る。

「私たちは笑ったりなんてしないし、催促したりなんてしないからさ。だから、お願いだから何かしゃべってよ。侑記の声が聞こえないと、こわいよ。だって、声にしてくれなくちゃ何もわからないんだもん」

 乾いた声で笑うことしか、できなかった。

 確か侑記が小学三年生のとき、むしゃくしゃして投げつけたベイブレードが食器戸棚の左端に当たって、ガラス扉の上に巨大な穴があいてしまったのだった。
 あのとき壊した食器戸棚が、今でも戒めのためにそのままにしてあることを思いだす。
 ああ、この穴のあいたカーテンも、この不細工な格好のまま残される運命にあるんだな。
 これだからうちには友達をだれも呼べないんだよ、だから僕には友達がいなくて、しまいには姉に暴力団に入ったとか勘違いされる羽目になるんだ、などという支離滅裂な思考が、ぐるぐると頭の中を循環している。

「……カーテン、ごめん」

 とりあえず声をかけようと思うと、謝罪の言葉がごく自然に口の中から込み上げてきた。
 彼女は弱々しくこちらを見つつも、一体何がおかしかったのか、少しだけ口の端を持ち上げながら紡ぐ。

「自分の部屋でしょ」
「それでもさぁ、なんか、ごめん」
「謝るなら私の付け爪に謝って。さっきので使い物にならなくなっちゃったから」
「ごめんね、爪さん」

 カーペットの上にうずくまり、落ちていたネイルに向かって大真面目に声をかけてみせると、姉はようやく普段通りの声で笑い始めた。

「あんたさ、別に悪いやつらとつきあってたわけじゃないんだね」
「そうだよ。さっきからそう言ってるし」
「ばかだなぁ、あたし。どうしてわかりきったようなこと聞いちゃったんだろう」

 頭をかいて、姉はハハハと乾いた笑いをこぼした。

「ねぇ、侑記、本当にごめん。もう二度とあんなこと言わないから」
「どうかな。姉ちゃんならすぐ忘れそうで心配だ」
「失礼なやつだな。このお姉ちゃんの頭がどんだけ優秀にできてるか、まさか知らないわけじゃないでしょうに」

 ずいぶんと昔、それこそ彼女が今の侑記と同じくらいの歳のころから、姉は小学校の教員になりたいのだと根強く言いはっている。
 自分よりも年若い生徒に教えることによって、自らの優位性を保てるのだか何だか知らないが、とにかく充足感が得られている彼女の姿は容易に想像がついた。
 そして、その自負はひとえに、長年面倒を見てきた侑記の影響が強いのだろうということも、ごく自然な調子でわかっている。

 侑記がひとりでぼんやりと思想にひたっていると、それまでぽつねんと両足を揃えて座りこんでいた姉が、突然しゃきしゃきとしたテンポで動き始めた。

「そうだ。それじゃ侑記、いっしょにこれやろう」

 そう言って、持って来たスーパーの袋の中からドン、と力強く置かれてしまったのは、あろうことかほこりをかぶった大量の制汗スプレーである。
 意味がわからない、と顔中の筋肉を使って表現しながらも、侑記は尋ねた。

「……これってどういう意味」
「昨日、リフォームのために家の中を片付けてたら、洗面所の棚の奥からこんなにたくさん見つかったんだって。まったく、何年前のだかわかりゃしない。……あ、ちなみに見つけたのは私じゃないよ、お母さんだよ」
「そんなのはなんとなくわかってるけど」
「で、スプレー缶って中身が残ってたら捨てられないわけじゃん。爆発すんじゃん。だから、そろそろやらなくちゃと思って」
「だから何を」
「決まってるでしょう。立派な環境破壊だぜ、我が弟よ」

 悪戯を先導する前のガキ大将のような顔で、姉はニ対のスプレー缶を持ち上げた。
 そのまま穴のあいたカーテンを引っつかむと、半ば破り捨てるようにして開け放つ。
 手前にロックを倒してサッシを引き、そのままスリッパも履かずにベランダの上へ一歩、白い素足を踏みだした。

 月は住宅の屋根にすっぽりと隠されてしまっているから、闇に取り残された星々だけが、寒さに凍えながらきらきらと瞬いている。
 両手に一本ずつのスプレー缶を構え、天に向かって突き上げる彼女は、まるで西部劇に登場するカウボーイのようだ。

 間もなくして、シューッ、と空気の抜ける破裂音とともに、鼻孔をくすぐる人工的なせっけんの香りが放たれた。
 目にしみるほど強烈なそのにおいは、向かい風に乗って部屋の中の侑記をも刺激する。
 姉の反対側の手に握られているのは、先ほど剥がれおちた付け爪と同じ、目の覚めるようなショッキング・ピンクの缶である。
 おそらくフローラルかローズの香りでも付けられているのだろうが、今や二つのにおいはいっしょくたにまとまってしまっているので、もはやどちらがどのにおいなのだか判別がつかなかった。

「姉ちゃんって本当に最低だよね」

 隣の家にも聞こえるよう、姉の背中に向かってわざと大きな声を張り上げてみせると、姉はくすりといかにも姉らしい笑い声を立てて、侑記の顔を振り返った。
 彼女の頬のまるい輪郭が、電燈に照らされて真白い筋を灯している。

「ゴミ収集車の中でスプレー缶が爆発して三人死ぬのと、ジワジワとオゾン層の穴を広げて七十億人が死ぬの、どっちを選ぶ?」
「どっちにしても殺す気まんまんなんだ」
「当たり前でしょう。生きてるかぎり、私たちはみんな殺人者なんだよ。どうせ同じ殺人者になるんだったら、男らしくスケールのでかい方を選べや」

 姉があまりにもきれいな発音でそんなことを言うので、侑記は思わずぷっと吹きだしてしまった。
 笑いごとではなかったが、ここで笑わずしていつ笑うのかと思わされるような、小気味の良いブラック・ジョークだった。

 言葉を返す代わりにカーペットの上に立ち上がると、侑記は部屋の中央に集められた、大量のダイナマイトたちを吟味する。
 結局、集められた制汗スプレーたちの群れから、侑記は最も色の鮮やかな緑色と紫色の缶を手にした。
 手首を使って滑らかに上下に振れば、カラカラと実に小気味の良い音を立てて、フロンガスを交えた大合奏が鳴り響く。

 そのままサッシをまたいでベランダの上に立つと、姉もいつになく嬉しそうにくしゃりと笑って、スプレー缶の中身を勢いよく空に向かって吹きだした。
 挑発に乗る闘牛のような気持ちで、侑記もそれにならう。
 せっけんとフローラルと緑茶とラベンダー、気が狂いそうなほど甘ったるい四つの香りが、脳内を混ぜ砕いてわんわんと唸る。

 こうして、確実に汚れてゆく地球とひきかえに、二人はかりそめの信頼関係を取り戻したのだった。







 

 

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