Scene11-2

まるとばつのゲーム-2


 こんなふうにして、小林は突然侑記のクラスから姿を消した。
 なんでも、本当の名前は小林大五郎とかいうふざけた名前では決してなくて、チョウとかチャンとかそういう、カタカナで表記する種類の名字であったらしい。
 別に彼が今更朝鮮人だろうが何をしようが、核兵器を撃って来そうな国の人間だろうが、そんなことは全然どうでも良かった。
 小林と呼んでいた人間はいつまでたっても小林のままだったし、そんなキムとかチェとか耳慣れない本名なんて、今さら覚えておこうとも思わなかった。

 それでも、彼がいなくなった後、教室の掲示板を見るのがとてもきらいになった。
 彼から送られた最後の手紙は、残されたクラスメイトたちからのラクガキでもはや真っ黒に染まっていた。
 あんなことになるくらいなら、いっそのこと剥がしてしまえば良いと思うのだが、この様子から判断するに担任は全く気がついていないらしい。
 そして、誰もそのことを報告しようとは思わないらしい。
 そもそも、侑記たちは奇妙なセンチメンタリスムをとことん避けようとする種族だから、やめようよとかかわいそうだよだなんて、口が裂けても言えるはずがないのだ。

 そういうわけで、侑記は自然と図書室で本を読む日数が増えていた。
 図書室で、とは口先だけで言いつつも、そもそも学校の図書室で本を借りたことは一度もない。
 侑記はただ単にひとりで何かができる場所が欲しいだけで、実際は本を読んでいたとしてもそれは姉が貸してくれた本であったり、あるいは地元の図書館で借りてきた本であったりするのだ。

 言ってしまえば彼のやっていることは、マクドナルドの店内で買ってきたばかりのロッテリアのバーガーをほおばっているようなものだ。
 ふつうの店員だったらむっとしたような顔をしているところであろうが、図書室の司書は常連である侑記に対し、なにかと態度がおだやかだった。
 それゆえに、案外好き勝手なことをしていても許してもらえた。
 たとえば画用紙ほどの大きさがある色鉛筆を広げて絵を描き始めても、ここは美術室ではありませんよ、と言って追いだされることは決してなかった。

 しかし、今日の昼休みは図書室に行くことができなかった。
 なぜならば、図書室の前についたその瞬間、教室に使うはずの画材を忘れてきたことを思いだしたからだ。

 小林がいなくなってからというもの、侑記はやたらと絵を描くことが多くなった。
 それは決して、いなくなった小林のくせが乗り移ったとか、そういう霊的な現象などではなく、頭の中で小林の絵を思い描いているよりも、自分の下手くそな絵を見つめていた方が、彼のことをうだうだと思いださずにすむからである。
 まるで、脳内の小林の絵を、クレヨンでがしがしと塗りつぶしていくように。あるいは、その行為に心の底から後悔の念を覚えて、その上から自分の絵を描いてゆくように。

 したがって、上手い下手を別にすれば、侑記は以前よりも気合いを入れて絵を描くようになりつつあった。
 花瓶やら本の表紙やら、はたまたボールペンとその影などを、ノートの片隅にひたすら描き殴っていた。
 それを、果たして自分が本当に楽しんでやっていたのかどうかはわからない。


 それから何分かたったころであろうか。
 突然、黒板にチョークを叩きつけるような音がして、侑記ははっと顔を上げた。

 見れば、授業中いつも隣の席に座っている紗弓が、珍しくオルガンの練習に精をださず、代わりに黒板に向かって大がかりな落書きをしているところなのであった。
 落書きとは言いつつも、それは黒板のど真ん中に、中くらいの大きさの丸を描いただけなのである。
 いったい何をしでかすのかと思いきや、紗弓はいきなりその円の中に、眉毛の太い少年の顔を描きはじめた。
 前髪はこざっぱりと分けられており、毛先は剛毛で逆立っている。

 ……そうだった。彼は、小林は、紗弓や侑記とは大違いな存在だったのだ。

 彼女はその後も、少し面長に変えようと思ったのか、途中から黒板消しを取りに行ったり、はたまたそれを使って頬の輪郭を削ったりなどもしている。

 気がついたときには、侑記もまた席を立ち上がって彼女の隣に並んでいた。
 探し当てた少し長めのチョークを持ち、楕円型の顔の下に胴体を描く。

 紗弓は驚いたようにこちらを凝視した。
 彼女は楽しくて笑っているときは板に乗ったかまぼこのような目をしているが、意識をして笑っているときは、びっくりした猫のように大きく目を見開くのだ。
 しかし、こんな時でさえやはり彼女は何も言わなかった。緑色のチョークでパーカーの内側を塗っていると、黒板のやや右上あたりの角に、「絵、じょうずだね」と遠慮がちに書きこむ。
 ずば抜けて小さく筆圧も薄い、つまり非常に読みにくいその文字で、それでも紗弓は語る。
 それは、華美な彼女の容姿に実にそぐわなくて、なぜだか胸の内が鈍くざらついた。同時に、とてもとてもほっとした。

 わけもなく目の奥が熱く火照りそうな気がして、侑記はふいに合作途中の絵を放り投げると、今度は緑色のパーカーの少年の隣に、一本の短い線を引いた。
 その上からもう一本の線を十時に交差させ、これをあとひとつ組み合わせて九つのマス目をつくる。
 教室内で一時期はやっていた、丸とバツを交互に埋めていって、先にタテかヨコかナナメにそろえた方が勝ち、というゲームだ。

 それを悟ったらしい紗弓の顔色が、にわかにぱっと明るくなった。
 ジャンケンをして先攻を決める前に、紗弓が斜め上にバツ印を書きこむ。
 こういうゲームは先に真ん中を取るのが常識なのにな、と思いながら、侑記は苦笑混じりに中央のマス目に丸を書きこむ。
 紗弓がしまったという顔をする。
 慌ててまっすぐ下にバツ印が書きこまれたので、侑記が笑いながら二つのバツの出口をふさぐ。
 この時点で、侑記の丸印がすでに二つそろっていたことに気がつきもしない。

 侑記は耳が不自由だ。
 だから、周りのみんなと同じ発音をするのがむずかしくて、言葉がうまく話せなくなった。
 しかし、紗弓は別だ。彼女はふつうの子どもたちと同じ耳を持ち、同じのどをもち、同じ口を持っている。
 にも関わらず、彼女の心の中にわだかまっている多くのもやもやとした得体の知れない生き物は、どうして形にならないのだろう。

 侑記にはそれがわからなかった。
 わからなかったけれど、彼女が苦しそうなことだけは、なによりもよくわかった。それは、きっと彼女にもわかっていないからなのだ。
 そして、それは耳が悪いという明らかな欠陥をもつ侑記よりも、ずっとずっと言い訳のしづらい欠陥なのだということも、わかった。
 わかったがゆえに、彼女が時おり見せる消え入りそうなほど小さな微笑みが、なんだかすごくかわいそうで、ほっとして、いらいらして、なによりどこまでも腹立たしかった。

 かたり、とチョークを置いた侑記は、心の中で「先生」とつぶやいていた。
 隣に立った紗弓が、何故か食い入るような瞳でこちらを凝視していた。







 

 

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