「しょーがねぇだろ、生まれてこのかた六年間、こんなまだるっこしい服なんて着たことなかったんだからさぁ」
がすがす、と蹴飛ばすように木製の階段を上がれば、リツ、と今度はたしなめるような口調で名を呼んだ。
「そんなはしたない言葉づかい、あの女の子たちの前では絶対に使っちゃだめだよ。みんなリツのこと、本物の女の子だと思ってるんだから」
「わぁってるわぁってるってんの! あああもう、他人ごとだと思ってすかした顔しやがって。むっ、ちゃくちゃ腹立つ!」
ぼすん、とふかふかの羽毛布団の上に腰を下ろして、そのまま大の字になってごろりと寝転がった。いきおい、べろんとはしたなくめくれ上がったスカートを、苦笑しながら両手できちんと整えてくれるのは、やはり栄一の仕事なのだ。
吹き抜けの、よく音が響く一階の作業場からは、がちゃん、がちゃんと活版を押してゆく重厚な音と、シンナーのようなインクのにおいが立ち込めて、頭のなかがくらくら揺れる。
こんな吐き気のするような仕事、よくもまあ継ぐ気になったなこいつと呆れながら、リツはじぶんの腕の隙間に目を細めた。
「な。栄一」
「ん」
「さっきのやつら、全員お前あてに仕事の依頼?」
布団の上からすっくと腰を上げた男は、ボタン同士をかちかちいわせながら上着を脱いで、少しずれた手袋をもう一度だけ引っ張り直して、それからようやく、そうだよと頷く。
「官僚候補のエリートくんと、オオカミ耳の探偵さんと、自転車漕ぎの郵便屋さんと、たこ焼き屋の跡取り息子さん宛て。以上」
「相変わらずバリエーションゆたかだなぁ」
ぷわっ、と片手を使ってあくびをかみころせば、葡萄染色のベストのボタンを、一番下だけはずして、栄一は笑った。
「まぁ、そのくらいのほうが飽きはこなくていいかな」
「のんきなこと言いやがって。締め切りは?」
「今週中―」
間延びした声で返しながらも、彼の広い背中は、まるで吸い寄せられるように机の上へと向かっている。
あ。もうあっちの世界に飛んでったな、とリツは春のうぐいすのような陽気で思った。がたん、と引き戻されるささくれだった椅子が、普段の彼には似つかわしくない、ひどく無造作な音を立てる。
次いで、猛烈なスピードで走ってゆくのは、彼の袖と羊皮紙の間でわきおこる、竜巻のような摩擦音。ぷちぷちと紙の表面を削りながら、自身も摩耗してゆく金属質のペン先、そうしてごくごくたまに、インクを継ぎ足すときに聞こえてくる、ごろろ、と転がるようなインク瓶の音。
「……読めた。今の相手はエリートくんだな」
「ん?」
「どーせハードル高い方の依頼から片付けよーとしてんだろ」
「どうしてばれたのかな」
くるり、とペン軸を回す彼のすぐそばに、リツは所狭しとまぎれこんだ。開けっ放しの二階の窓から、遠い機関車の汽笛がこだましてくる。
「ピーマンとチョコレートだったらどっちから先に食べる?」
「ピーマン」
「ほらな。だから、要はそういうことだよ」
「リツ、なんだか甘いにおいするね」
すんすん、と鼻腔と風の音をこすらせたかと思いきや、次の瞬間、栄一が「あー」と無関心な態度で口を開いていた。リツは呆れはてて固まってしまう。
「……なんでそーなる」
「くれるのかと思って。ほら、面倒くさい仕事とバランスをとるには、好きな食べ物が必要不可欠って意味だろ?」
「ちげーよばかやろう。……あーん」
「あーん」
生まれ持った性別を忘れてしまう、痩せ細った指先でチョコレートを摘みあげ、彼の口元へと運んで行った。従順に伸ばされた舌の上に、ぽいと簡単にチョコレートを投げ入れれば、ほのかな苺の彩が香ってゆく。
うん、甘くて美味しいね、と無邪気に笑う栄一に対し、リツは深い深い溜め息を吐き出してしまった。振り返り際に不思議そうに首を傾げられる。
「どうしたの」
「いーや。なんでも……」
不満をなるべく表に出さないようにしているリツに、栄一は苦笑したようだった。
仕方がなく、彼の唇から吐き出される幸福な吐息に、真っ赤な舌であかんべーを向けてやることにする。